2016年7月 5日 (火)

「どちらのため」ではなく「どちらものため」~いじめ調査の開示問題について


いじめが起こってその結果重大なことになってしまったとき,第三者委員会が組織されて調査をするケースが増えています。その第三者委員会の調査結果をいじめられた側に開示されないケースがあるようです。

学校が調査報告の公開にかなり慎重にならざるをえない事情も理解できるんです。今はいじめ事案が起こるとネットを介して様々な情報拡散が行われ,いじめた子の更生や人生に大きく影響がある現状があります。もしいじめの調査報告が本人や家族を通して公になると,それが関係者の中だけにとどまらず,ネット等によってひろく拡散されてしまう可能性が極めて高いのが現状です。すると,同じようにいじめた子のこれからの学校生活や人生に大きな悪影響を与えてしまうことになります。いじめた子のことを考えると,これは避けなければならない。

少年事件では,非行少年に関する情報は基本的に非公開です。審判結果も非公開ですし,被害者やその家族は,基本的に審判に出席もできません(今は一部のケースで遺族などが審判に出席したり審判結果を閲覧したりすることが可能になっています)。これは,非行少年のこれからの人生を守るため,その子が非行をしたことを社会に知らさないためです。いじめのケースでも同じように,いじめた子の更生のためにその事件の情報を制限することは,ある意味意義があることだといえるのではないかと思うんです。

しかしそうはいっても,いじめられた子やその家族が調査結果を知りたいと思う気持ちはじゅうぶん理解できます。特にいじめられた子がなくなった場合は,わが子になにが起こったのかを知りたいと思うのは家族として当然の気持ちですし,知ることは当然の権利だと思います。わが子に起こったことを知るためには,第三者委員会の調査しかない現状では,被害者やその家族が調査結果を求めるのは当然のことでしょう。実際少年事件の被害者やその家族が,審判結果を見れなかったり審判に出席できなかったりでやりきれない思いをしている現状もあります。

ということでこの問題を考えるには,いじめた子のために情報を開示しないのか,いじめられた子やその家族のために情報を開示するのかといった議論をしても平行線をたどるだけで解決にいたらないように思います。「どちらのため」ではなく「どちらものため」という視点ではない視点から考えなければならない問題ではないでしょうか。

なにがいじめた側いじめられた側双方のためになるのかをきちんと議論したうえで,その「双方のためになること」の中に調査結果がどう位置づけられるのかを考えて開示するのかしないのか決めるべきではないかと考えます。

何が双方のためになるのかは個々のケースでさまざまになるでしょう。一般的なマニュアルは作れないのではないかと思います。第三者委員会は,「このケースでは」何が双方のためになるのかも議論していただきたいと思います。そのためにも,第三者委員会の人選は,いじめられた側から推薦された委員に入ってもらうことが大事です(今はそうなってきているように思います)。

私は,いじめの問題を含めていろんな問題を,二律背反の構造にもっていっても解決にはならないだろうと考えています。どちらかにいいように,ではなく,どちらにもいいように,考えてきたいと思います。

2016年6月16日 (木)

「望まれない妊娠」を「望まれる妊娠」へ~朱雀高校のケースを考える


京都府立高校の3年生の生徒が,妊娠したため体育の実技が受けられず卒業できない状態になっています。学校は出産のために休学をすすめていますが,本人は来年の卒業を望んでいます。この高校は,この生徒に体育実技を免除すべきでしょうか。

この問題を考えるために,まず10代の妊娠についての世の中の考え方をまとめてみます。そもそも10代の妊娠は「望まれない妊娠」として世の中では歓迎されていません。たしかに10代での出産子育てというのは,もしかしたら落第しなければならなくなるかもしれない,そうなったらほかの子よりも卒業が一年遅れ,社会に出るのが1年遅れることになります。その子のこれからのキャリアに大きな影響を与えるでしょう。また,結婚前の性交渉があったということの証拠になりますので,「ふしがらな」子だと思われるかもしれません(これは決して昔の事ではなく,婚前交渉が当たり前になった今でもそうです)。10代の妊娠が「乱れた性」の象徴として描かれてもいます。そういった性道徳の強調の筋からも,10代の妊娠は「望まれて」いません。ですので,10代は「妊娠しないように」させることが,「望まれない妊娠」対策の第一になります。避妊教育も,「望まれない妊娠」をしないことが強調されています。

さて,10代の妊娠が「望まれない妊娠」であったとしてその対策を考える場合,もう一つの道があります。それはその妊娠を「望まれない妊娠にしない」という道です。なぜ10代妊娠が望まれないかというと,学校に通いながら出産子育てするシステムがまだきちんとできていないため,その子のキャリア形成に影響を与えるからです。だったら,学校に通いながら出産子育てをしても,その子のキャリア形成への影響が少なくなるようなシステムを作ればいいのです。そうすると,その妊娠は「望まれない妊娠」になりませんね。京都府立高校のケースだと,体育の実技の授業が受けられなかったり出産育児で授業を受けられなかったりした分を,レポートなどにするとかいうシステムを作ることですね。性道徳についても,性行為が子どもを作るものだけでなく愛情表現のひとつでもあり,だから婚前の性行為はいけないことではないこと,そして100%の避妊はないということを教えていくべきではないかと思います。

しかし,これはかなり難しいのではないかと思います。世の中の主流は,今はまだ「望まれない妊娠」を防止する方向に重きを置かれているように思います。10代の子に妊娠してほしくない人にしてみれば,10代の子の出産子育ては避けるべきものですから,妊娠した10代の子への配慮や優遇はしてほしくないことでしょう。なぜなら,10代の妊娠は「望まれない妊娠」ですので10代は妊娠するなと言いながら,10代の妊娠に優遇措置をとるのは矛盾ですよね。この高校は,この矛盾を突かれたら返しようがないから,体育の実技免除の基準に妊娠を入れられないのではないかと思います。実際他のケースでは,10代の妊娠に優遇はしない措置は当たり前であり世の中の支持を得られたでしょう。

ただ,文科省も教委もネットでの反応もこの子の来年の卒業を支持しているところから,世の中の潮目が変わってきてるのかなとも言えるでしょう。この生徒の妊娠が「望まれない」ものではなくなったとは言えませんが,この生徒の妊娠を肯定的にとらえようとする動きはでてきたのかなと思います。

私は,今この生徒のお腹の中にいる子は縁があって命を授かった子ですから,この生徒も保護者も学校もみんなが機嫌よくこの子をこの世に迎えられるようにしたいと思います。そのために,この生徒の妊娠を「望まれない」ものではなく「望まれた」ものにしたいんですね。体育の実技がこの生徒の望みやキャリアのハードルになっているなら,それを取り除けばいいと思います。それで学校は「望まれない妊娠」を認めているのではなく,その妊娠を「望まれる妊娠」にしようとしているのだと言い切ればいいと思います。

少子化が進んで(今年は少し止まりましたが)出産子育て環境の整備を声高に言われている昨今です。出産子育て環境をよくするのは,なにも職場だけではありません。学校も,子どもが作れる体になっている子が通います。このケースが,学校の中でも,安心して出産子育てできる環境を考えはじめる,いいきっかけになることを願います。

2016年6月 8日 (水)

ヤンキーの子を食い物にするな!!


つまり,介護職員の「ひとり親方」化を進めようとする意見ですね。地方のヤンキーたちを介護職員にして,独立させてひとり親方にさせる。個人事業主にすると,がんばればがんばっただけ収入が上がるから,「定収入でも家族や仲間とまったり過ごしたい」彼らも上昇志向を持つようになるだろう。介護職員確保にもなって,いいことだと言いたいんでしょうね。


はっきり言います。ふざけるな!!


今「ひとり親方」といえば建設業ですね。現場に入っている職人さんは,下請けの個人事業主である人が多いです。そういう職人さんたちは,元請けの建設会社から仕事をもらって現場に行きます。職人さんをひとり親方にすると,会社の側は,社会保険料や雇用保険料の負担もないし,その他の社員に対する費用や事務の負担がないわけですから,コスト削減になります。ひとり親方も,「労働基準法の縛りなく働けます」のでがんばったぶんだけお金がもらえます。どちらにもいいことずくめだと言いたいんでしょうね。


でも,ほんとうにそうなんでしょうか。職人さんたちは個人事業主ですから,労働基準法の勤務時間の制限がありません。しかも請け負うときは一仕事でいつまでにいくらの請け負い方をしますので,請け負わせる側は,労働基準法による労働時間内でおさまらない工期設定でもOKなんですね。もちろん断ることもできますよ。でもそれでは仕事がもらえない。仕事がもらえなかったら収入ゼロですね。それで,無理な工期で朝から晩まで働かされる。


今建設現場では,日曜日だけ休みになっています。土曜日も朝から晩まで仕事しているんですね。うちに事務所の裏もホテル建ててるんですが,土曜日も朝から晩まで職人さんが働いていますよ。あんなの,職人さんがもし社員さんであったら完全に労基違反なんですが,でも職人さんは個人事業主なのでOKなんですよね。


また,ケガをしても労災保険の任意加入をしておればまだ救われますが,入っていなかったら全額実費です。もちろん社員さんは事業主が強制加入ですから,そんな心配は無用ですが,ひとり親方は個人事業主ですからね。労災保険料も自前です。


しかも,労災を請求したら,その現場の安全はどうなっているのか調査するために労働基準監督署が入ります。建設会社はこれを嫌がるんですよね。だって,どんな現場だってたたけばほこりが出るんですから。「目をつけられる」わけです。ですので,「暗黙に」労災を使うなという空気があると言います。そうなると,いくら労災に入っていてもケガの保障は何もないわけですね(実は損害保険会社はここに目をつけて,ひとり親方に,労災を使わなくてもけがの治療が保障されますよという商品を売るんですね。もちろん,労災の「上乗せ」という名目ですが。これ,けっこう売れてます)。


もちろんこれは,最近行政の指導がかなり徹底しているので減ってきてはいるみたいなことです。しかし,元請けに「迷惑をかける」ことにはかわりないわけですから,労災を使うのも気が引けますよね。また,労災を使った職人さんは次の現場に使ってもらえないといううわさもあります。もちろん社員の職人さんはそんな心配は皆無です。でも,ひとり親方は,違うんですよね。


そう考えると,ひとり親方になるのも問題あるなと思います。でもね。そういうひとり親方のあり方に親和性がある人たちがいるんですよ。そう。ヤンキーの子らなんですね。


彼らは,自分ががんばったぶんだけお金がもらえて,しかも「雇われている」のではない立場であることがうれしいんですよね。そりゃそうです。ヤンキーになるような子は,労働時間の規制は完全無視で働いても働いても低賃金で,雇い主から理不尽なことを要求される,いわゆるブラック企業での就労経験しかないわけですから。雇われるっていうことのイメージが悪いんですよね。「労働者の権利」なんていってもピンとこず,働くとはそういうものだ,と思ってしまっている。


さらに,今自分はこうなったのは,勉強しなかったからだとか親や先生の言うことをきかなかったからだとか,つまり「自己責任」だとさんざん言われていますので,世の中は自己責任が当たり前,自分のケガなどを誰かから保障してくれるという考えになじまなくなっています。ひとり親方の資質じゅうぶんですね。


そうやって,「合法的に」ブラックな働き方をさせているのが「ひとり親方」制度なんです。ヤンキーの子らは,そういう働き方しかさせてもらえず,でももたなくてやめてしまったら「根性がない」とか「だからヤンキーは」とか言われる。余計にちゃんとした働き方ができない,の悪循環です。


そして,学校などからドロップアウトする子は確実にいますので,換えは何人でもいるわけです。この子がつぶれても,一部のもつ子だけいればいいわけですし,子どもがつぶれるのは子どものせいに知るわけですから,世の中はいつまでもこの体制を変えようとしませんね。そうやって,学校などからも働くことからもドロップアウトせざるを得ない子どもを量産しているのです。


さて。今は建設業が多いこの制度ですが,今度は介護にも使おうとしています。そうなったら,ヤンキーの子らは建設だけでなく介護でも,ブラックな働き方をさせられることになります。


そりゃ,介護業者はいいですよ。労基も労災も考えなくていい安価な労働力を手に入れられるんですからね。さらに政府も,介護報酬を安くあげられますから,願ったりかなったりでしょうね。でも,ヤンキーの子ら側からするとどうですか。やはり労働者としての人権を無視しされた働き方しかできないんですね。


これって,ヤンキーの子らを食い物にしているだけじゃないですか。


こんなひどいこと,私は許せない。そりゃ,ヤンキーの子らは世の中に迷惑なことしたかもしれない。でも,だからといって世の中の食い物にされる筋合いはない。ヤンキーの子らを食い物にするから,彼らは立ち直れないんです。


私はヤンキーの子らとともにある身として,こういったヤンキーの子らを食い物にするようなやり方に断固反対します。

2016年6月 5日 (日)

体罰は「行きすぎた」指導なのか

体罰などがあると「行きすぎだった」と言われます。いつも私はその言葉に違和感を持ちます。



「行きすぎ」ってどういうことだろうと。

体罰などが「行きすぎ」だっていう考えの前提は,指導方法に段階があって,体罰などにいたる前に何かほかの指導があって,その指導の域を超えた先に体罰などがあるということでしょう。体罰などが「行きすぎ」だというのは,本来ならば体罰などまでにいたらない段階の指導をするべきなのにしなかった,という意味なんでしょう。


では,体罰など様々な指導の段階はどうやって決められているのでしょうか。一般的にはその指導の「厳しさ」によって決められているようですね。たとえば,優しい口調で叱るのときつい口調で叱るのとでは,きつい口調のほうが厳しい,口で叱ると体罰とでは,体罰のほうが厳しい,と言った具合です。そして,より厳しい段階のやり方が効果があると思われています。それで指導の「厳しさ」に段階をつけて,そこに子どもを当てはめる。「この子は何度もやっているから,きつい口調で叱るに値する」とか「この子は初めてやったことだから優しい口調で叱る程度でいい」とか。


しかし,子どもをその序列にあてはめるときに,どうしても大人の思いが入ってしまうんですね。その子をなんとかしなきゃ,っていう思いが強い大人は,どうしても子どもを厳しい段階にあてはめようとしてしまいます。また,教育方法の「厳しさ」の段階って,そもそもできないんじゃないのかともいえます。ある子にしたら,優しく言ってもらうほうが,きつい言い方をされるよりもこたえる,っていうこともあります。教育方法の序列に子どもを当てはめるやり方では,その子どもと教育方法とがうまくマッチしないでズレができてしまうんですね。


私は,そもそも教育方法の「厳しさ」による序列に子どもを当てはめる発想は,もはや使えないだろうと考えます。子どもを教育するときにどんな方法を選択するかは「厳しさ」基準ではなく,その子の問題に合わせたやり方を選択するようにすべきです。


そうして子どもにあわせた方法選択の中に体罰が入る余地があるのかを考えてみると,入る余地はないと言わざるをえません。なぜなら,体罰は子どもの尊厳を奪うものである以上,そもそもどんな教育目的であってもその達成につながらないからです。


指導方法に段階をつけるから,体罰があってしまうと思います。体罰は「行きすぎた」指導ではなく,そもそも指導の選択肢に入れない考えのもと,指導していく必要がるのではないでしょうか。

あわせてご覧ください(外部リンクに飛びます)

「まともな大人」による「まともな教育」のために

Yahoo知恵袋に投稿された,クラスで騒がしい生徒がいて,騒ぐ子供の成績を1にしたいという相談です。


私(ここではyc_pcbkxです)はその回答の中で,

「私があなたの質問を読んでまず思ったのは, 「なぜその子たちは授業中に騒ぐようなことをするのだろう」 ということです。そりゃそうですよね。授業中に騒ぐ子は,授業中に騒ぐ「なぜ」があるんです。あなたの質問にはそれが書いてない。なぜでしょうか。思うにあなたはなぜその子たちが騒ぐのかわかってないからじゃないでしょうか。なぜそんなことをするのか,ひざ突き合わせてきちんと話し合っていないからじゃないでしょうか。なぜ騒ぐのかわからなくて,その子たちのちゃんとした指導はできませんよね。だから,成績で脅しをかけたり体罰という重大な法律違反を犯すという,表面的な対応しかできないのではないでしょうか。そんなことをする大人は「まともな大人」でしょうか。たたいたり脅したりって,そんなのまさにヤクザのすることじゃないですか。先生がヤクザと同じことしてどうするんですか」
と書きました。 まあねえ。てなこと書いていながら実は,僕もこの先生の気持ちがとってもよくわかるんですよね。日々ぎりぎりのところで指導していると,どうしても「ダークサイド」に落ちてしまいかけることもあります。そんなときに「はっ」と思えるのは,ふとした時に見せる子どもの表情だったり言葉だったり,同僚の先生の一言だったり。 たぶん,学校内で,こんな指導おかしいって思ってる先生はいると思います。もしかしたら,こんなのおかしいって思っていながら学校の空気を読んで表に出さない先生の方が多いかもしれません。そんな先生を見つけてつながっていけたら,みんなが声を掛け合えられたら,誰もが「ダークサイド」に落ちなくてもすむのではないかと思います。実際,もともな教育ができている学校もたくさんあるわけですし。 この先生をたたくのは簡単です。でも,たたく前に,先生がまともな指導をする「まともな大人」であれる学校にすることが先だと思います。先生は,ほとんどがもともとは「まともな大人」なんだし,そうでないまたはそうでなくなった先生を更生させるのも,「まともな大人」であれる環境でのみ可能です。そのためになにをどうすればいいのか。そちらに重点を置いて考えていけたらと思います。

2016年5月15日 (日)

「カルテ」の使い方~その子の「歴史的資料」としての「カルテ」

「障害ある子の「カルテ」義務化 小中高共通,学校が作成

少年院には,少年の身柄とともに「少年記録」と呼ばれる資料が来ます。少年記録には,警察の調書や少年鑑別所の鑑別結果,家庭裁判所調査官の調査記録,審判結果など,この少年についてのすべての資料がそろっています。私は,自分が担任することになった少年についてはこの少年記録を全部読みました。しかし,実際少年に会って,いっしょに生活をし面接を繰り返していくうちに,少年が記録にない姿を見せることがあるんです。あれ,少年記録にはこう書いてあったはずなのにな,って思っちゃうんです。

もちろん,鑑別や調査が間違っていたわけではありません。鑑別や調査をした人から見た少年の姿と私から見た姿が違っていただけのことです。円柱って,上から見たら丸いけど横から見たら四角いですよね。同じものでも違う角度から見たら違う姿を見せるんです。鑑別技官や家裁調査官と法務教官とではその子を見る目的が違いますから,視点が違って当たり前です。また,少年は日々変化していきます。社会にいる頃と鑑別所にいる頃と少年院に入った頃とでは,いろんな人との出会いや生活環境の変化で別人のように変わってしまうこともしばしばです。

ですので,少年記録は,「その時のその人が見た」記録,いわば「歴史的資料」であると「理解して」使わなければなりません。

さて。この記事では障害を持つ子どもの「カルテ」を作って引き継ぎなさいとする規則ができるとのことです。今までその子についての引継ぎがちゃんとされていなかったので,適切な指導ができなかったということです。

今までその子のことを引き継ぎできていなかったのであれば,たしかに,指導がぶつ切りになってうまくいかないこともあったでしょうね。 ただ,じゃあカルテを作って引き継ぎすればうまく指導ができるかと言えば,そうでもないんですね。カルテはあくまでも「その時のその人(先生)が見た」記録に過ぎないですから,カルテに書いてある子どもの姿と実際目の前にいる子どもの姿が違っていることも多々出てくると思うんです。先生は「今の」「自分の目で見た」子どもの姿を基に指導しなければなりませんから,そうなると「カルテ」は使えないな,って思っちゃうんですね。実際少年院でも,だから少年記録を見ない先生もいたんです(もちろんその先生は,自分の目で今の少年を見てすばらしい指導をされていました)。

かといってじゃあ,「カルテ」なんて使えないものはいらない,っていうのも違うと思うんですね。その子を見るとき,まっさらの目で見てその子を理解するのって,けっこう時間がかかります。学校でその時間を費やすことができるのかというと,たぶん無理でしょう。その子を理解するまで,当てが外れた指導をしてしまうことになってしまいがちになります。ならば,前の人はどう理解したのかを「参考」にして,自分が見えた姿とその記録とあっているところや違っているところをもとにその子を見るというやり方のほうが早いんですね。

一方,カルテに書かれていることを忠実に受け入れて,あたかもそこに書かれていることのみが正しいと考えるのもおかしいですね。こういうことがあるんです。ある先生がその子を見て違う先生に「〇〇さんって~ですよね」と言ったとします。言われた先生が「いや,申し送り(つまり「カルテ」)には違うように書かれていますので,その見方は間違っています」と答えるんです。マニュアル主義の先生なんかは,こう答えそうですね。「カルテ」がこのような使われたかをするのも,違うと思いますね。

「カルテ」はあくまでその子理解の「歴史的資料」にすぎません。必要以上に軽んじたり重んじたりすることなく,自分のその子理解のためにうまく使っていただいて,いい指導をしていただきたいと思います。

2016年5月11日 (水)

正しさの違い~文科省は子どもの自殺を把握できていないのか

「中学生の自殺 文科省 半数把握できず」 http://bylines.news.yahoo.co.jp/ryouchida/20160511-00057538/

「気がかりなデータがある。警察庁が把握している中学生の自殺件数と、文部科学省が把握しているそれとを比べてみると、とくに近年、両者の間に大きな差が認められるのだ。 グラフを見てもらいたい。1990年代半ば頃までは、警察庁の数字と文科省の数字は似通っている。つまりこの日本社会で起きた中学生の自殺事案については、文科省もその実態をほぼ正確に把握していた。 だが、1990年代後半頃から、両者の間に大きな開きがみられるようになる。年によってその程度は異なるものの、文科省は毎年おおむね4~5割の自殺事案を把握していない。 たとえば2014年に関していうと、警察庁が99件であるのに対して、文科省は54件のみの把握にとどまっている。警察庁が把握した事案のうち45.5%について、文科省はその実態を把握できていない、「直視」できていないのだ」

統計を見るときの基本として,この統計は「誰が」数えているのかを確認しなければなりません。たとえば「スイカ」は果物か野菜か論争があります。果物派は「果物屋さんで売ってるから果物だ」とします。野菜派は「木になっていないから野菜だ」とします(注1)。実際数えるときは果物か野菜かを決めておきます(定義づけといいます)が,数える団体が違ったりして定義づけが違う場合もあります。すると,「果物」を数えるにしても,「スイカ」を果物に数える人(団体)が数えるか野菜に数える人(団体)かで数が変わってきますね。「自殺」であっても,数える人(団体)が違うと,あるケースを自殺と数えるか数えないかが違ってきます。すると,全体の数が変わってくるのは当然ですよね。

警察の統計では,警察の捜査によって自殺であるとしたものを自殺として数えています(注2)。学校では,「年度間に死亡した児童生徒のうち,警察等の関係機関とも連携し,学校が把握することができた情報を基に,自殺であると判断したもの」を自殺と数えています(注3)。つまり,これが自殺だと「判断する人(団体)」が違うということです。

なんだか哲学的な話になりますが,そもそもモノや現象は,後から誰かがある定義に基づいて「これはこうだ」と判断(分類)してはじめてそのものになる(または名前がつく)んです。スイカだって,誰かがそれを「スイカだ」って判断(分類)しなきゃ,スイカとして自然界にあるわけではないんです。もしスイカに違う定義を持つ人たちがいたら,その人たちの中では「これはスイカではな」くなります。そこで「これはスイカか」論争をしても,もともとのスイカの定義が違うんですから,平行線のままですよね。これは,どちらが正しいではなく,人によって正しさが違うんです。

警察の数え方が正しいと考える人にとっては,文科省の数えた数が少ないんですから,文科省の数え方では「把握できていない」と思うかもしれませんね。では,文科省の数え方が正しいとする立場から見ると,警察の数え方は,「自殺に数えようとしたがっている」ように思えませんか。立場が違うと同じ統計も見え方が違ってくるんです。そしてそれはどちらが正しいという話ではないんです。私は,正しさが違う人たちに対して「把握できていない」だとか「直視できていない」だとか,相手に自分の正しさをおしつけるような議論をしても,議論が平行線になるだけでなんにも得られるものはないと思います。

もっというと,理論的には,警察は自殺と数えていないけど学校はそうだと数えている,つまり警察が「把握できていない」ケースもあるということになりますね。ですので,学校が警察よりも把握できていないっていうためには,警察が数えた個々のケースと学校が数えた個々のケースをつきあわせて,学校が把握していて警察が把握していないケースはないことを確認しなきゃなりません。単純に数を比較するだけでは判断できないでしょう。

そもそもね。個々のケースが自殺であるかないかの判断(分類)を論争するよりも,その子の死をそのまま受け入れて考えるようにすることが大事ではないでしょうか。そうすると,その死を自殺と数えるかどうかなんて「どうでもいい」ことになるんじゃないかと思います。

そしてそういう態度が,亡くなった命に対するせめてもの供養になるんじゃないのかと思います。

(注1)果物と野菜の区別についてはこちら。明確な区別はないようです。 http://www.maff.go.jp/j/seisan/ryutu/yasai/yasai_teigi/

(注2)ちなみに,厚生労働省の「人口動態調査」における自殺者数も,警察の統計とは違っています。これも定義の違いです。その違いについてと,警察の自殺の定義についてはこちら。 http://www8.cao.go.jp/jisatsutaisaku/toukei/

(注3)http://www.mext.go.jp/b_menu/toukei/chousa01/shidou/yougo/1267642.htm

2016年5月 6日 (金)

学校の多忙さと民主主義的な教育

昨日は大阪にフランスの教育事情のお話を聞きに行きました。話者の大津先生は体罰ネットでお世話になっており,フランス留学から帰ってこられたばっかりでフランスのお話を聞きたかったので楽しみにしていました。

お話の中で,フランスの教育では学校からいかに宗教をなくしていくかがテーマの一つになっている,とありました。その点質疑応答で,最近はフランスもイスラームの家庭が増えたが,宗教を否定する学校の価値観と宗教を大切にする家庭との間で矛盾はないのか,という問いがありました。フランスでは,学校は宗教をなくしていくが,家庭が宗教を信じることについては不問である,つまり学校では宗教を否定するがだからといって家庭で宗教を否定すべきだとは言っていない,家庭が宗教を肯定するのは勝手にやればいい,との立場だということでした。つまり,学校は家庭に教育観には口出ししませんよということです。

これ,日本ではどうかなと思って。日本では子どもをどういう人に育てるかについて,昔は教育勅語で決められていましたね,天皇のための臣民として育てると。戦後は教育基本法がそれにとってかわった。そこには子どもをどんな人に育てるかが書いてある。また教育基本法には家庭教育の条文もある。ということは学校も家庭も一緒になって法律に書かれているような子どもに育てなければならない。ですので,もし教育基本法に脱宗教が書いてあれば,家でも宗教を否定する子どもを育てろということになるんですね(もちろんそんなこと書いてないし書けませんよね)。ちなみに,日本でも教育基本法ができたとき,こんな基本法を作っていいのか,つまり子どもをどうんな人に育てるかなんて国が決めることじゃなくて個々の親が決めることじゃないか,それが民主主義なんじゃないのか,という主張もあったみたいです。フランスは多分こちらの考えなんでしょうね。

ちなみに,フランスでも学校では「共和制の価値を共有させる」ことになっています。共和制の国ですからね。共和制の国の教育としては共和制の価値を持ってもらうのを目標にするのは当然でしょう。その教育目標の中にライシテとわれる「脱宗教性」も入っています。でも,だからといって国民みんなが脱宗教をしなければならないわけではないです。宗教の自由は別にありますからね。だから,学校ではこうですけど個人がどう考えるかは自由,なんです。学校では脱宗教を教えても,子どもが宗教を信じるのは勝手なんですね。

とその場ではそこまでの話だったのですが。帰ってきて嫁とその話をしていたときに,はっと思ったんです。日本では国がこういう子どもに育てますを決めているんだったら,国が子どもを育てろと考えてもおかしくない。で,国の教育についての一番の出先機関は学校です。ですので,子どもの教育は学校がやれと。

そうすると,社会が子どもをこういう人に育てたいと思う,それを実現するためにその期待を法律に載せる。となると誰かが期待に応える教育しなきゃならない。誰がやるの?学校でしょと。だって教育の出先機関は学校なんだから。で,子どもをこう育てたいが増えてくると,その教育を担う学校の仕事も増えてくる。今は少子化で子どもへの期待が強くなってます。こう育ってほしいが増えてきています。となると,学校への期待もまた増えてくる。

ですので,いくら学校の先生などやお金を増やしても,社会の子どもにこう育ってほしいが減らないと,学校は肥大化するばかりでいつまでも今のまま忙しいことになってしまうということです。 学校の多忙なのは部活指導のせいだと主張して,部活指導をなくそうとする運動があります。たしかにそれは「今の」学校の多忙さの一つの原因ではあると思います。しかし,部活動をなくせば先生は暇になるかといえば,そうはならないでしょう。学校が社会の子どもにこう育ってほしいの受け皿になっていて,その期待が増えている以上は,学校の多忙さはなくなりません。部活指導がなくなっても新たな仕事が入ってきますから。 学校の多忙さをなんとかしなきゃならないのであれば,子どもへの期待の実現を学校に押し付けないことです。そのためには,子どもへの期待を法律という形で社会で共有することは極力避けて,子どもの教育を国民それぞれが独自の考えでやること。みんな同じ子どもに育てようとせず,それぞれの子どもの育ちでOKにすること。それが民主主義的な教育のある姿ではないかと考えます。
 

2016年4月16日 (土)

こころが弱った人に必要なもの~熊本の地震に考える

うちの相談室には,今まさに子どもが非行に走っているとか学校に行かないとかいったしんどさを持った親御さんが来られます。

そんな親御さん,心配や不安や自責の念などでほんとうにくたくたになっておられます。私から見ても,このまま帰して大丈夫だろうかと思うほどやつれてしまっている親御さんもおられます。

そんな親御さん,お子さんが非行や不登校などになったら,まわりの人から「あれをしなさいこれをしなさい」「ああしなさいこうしなさい」と「アドバイス」をたくさん受けます。

でもね。できないんですよ。こころも体もくたくたで,「こうやらねば」というのはわかっているんだけど,動けない。

まわりの人はそんな親御さんを見て,「子どもから逃げている」とか「親としての責任を果たそうとしない」とか言っちゃって,親御さんをがんばらそうとする。親御さんもがんばろうとする。でもできない。その悪循環。

まわりの人は,よかれと思って「アドバイス」するんですよね。でもね。それが疲れ果てた親御さんをより追い詰めてしまうことになるっていうことなんです。

しんどい思いを持っている親御さんには,まず楽になってもらうこと。子どもと向き合う元気を取り戻してもらうこと。「どうするか」のアドバイスはそれからです。よかれと思ってすることが常に相手のためになるとは限らない。かえって追いつめることになるかもしれない。私は私のところに来る親御さんに接するときはいつも,自分の言葉は相手を追い詰めていないか厳しくチェックしています。

先日の平成28年熊本地震で非難されている方々に向けて,いろいろな「ああしなさいこうしなさい」がネットで流れています。まだ被災して何日もたっていない状況では,被災者の方々は生きているのが精いっぱいの状態です。支援者も,生かしておくのが精いっぱい。そんな中で,生き死に関わらない「ああしなさいこうしなさい」をあびせられた方々はどう思うんだろう。

まわりの人にとってはとても大切なことかもしれない。しかしそれは極限状態に置かれた人の生き死に必要なことなのか。そういうことを今一度考えて発信すべきではないかと思います。

ネットの情報ですから,自分がいらなきゃ捨てればいいと考えるかもしれませんが,実際受け取るほうの人はそう思えません。情報の取捨選択ができるほど元気ではないからです。

被災者の方々や支援者が元気になってほしいと思った情報を流す。今はネット社会ですから,被災者の方々や支援者がほしい情報はその人たちから発信できます。

今はそっとしておいてあげてほしいと思っています。

2016年4月 3日 (日)

エビデンスがある教育

エビデンスに基づいた教育をしなきゃならないっていいますよね。エビデンスっていうのは科学的な根拠ということで,たとえばある仮説を立てて実験をしてそうなること(ならないこと)が確認されたものなんかはエビデンスになります。


たとえば,「酸素と水素を化合させたら水になる」(これが仮説)。ほんまかいなって思って実際に化合させてみる(これが実験)。すると水になった。なるほど。酸素と水素を化合させたら水になるは正解やな,ってことになる。


じゃあ教育の分野ではどうか。たとえば「35人学級よりも30人学級のほうが学力が上がる」(仮説)のエビデンスがほしいとなったらどうするか。まず生徒の学力や親の経済力や塾などに行っている人数などが同じである2つ以上のクラスを作って,片方は35人もう片方は30人のクラスにして,それで同じ授業をやる(実験)。それでテストをして点数がどれだけ違うかを比べてみる。30人のクラスのほうが点数が高かったら,この仮説は正しいとする。これがエビデンスになります。


しかしねえ。こういう実験って,現場はすごく抵抗あると思いますよ。だってね。もし35人学級のほうが点数が低かったら,そのクラスの子どもや保護者は,いやですよねえ。いくら事前に説明してその実験が社会的に有意義なものだってわかってても,やっぱり自分は30人のクラスに入れてもらいたかったって思うでしょう。先生だって,かわいそうだと思っちゃうでしょうしね。そりゃ,先生にとってその学年はこれから何度もあるでしょうけど,その子にとってその学年は一生に一度しかないんですから。


医学では,大学病院の附属病院は,治療のための実験施設ですから,たとえば新薬なんかの効き目を試したり新しい手術のしかたを試したりがされています。教育では,教育学部の附属学校がそれにあたるとされているんですけど,実際はそうなっていない。僕が教育大学にいるときも,附属の先生が「子どもはモルモットではない」なんて言って,実験的なことをしなかったんです。今はどうかわかりませんけどね。僕は,「なら,何のための附属やねん」って思いましたけど。附属ですらそうなんですから,ほかの学校ではさらに実験に対する抵抗は強いでしょうね。


つまり,エビデンスがほしいと思っても,そのための実験をしていいものと悪いものがあるということなんですね。教育や子育てでは,していい実験って案外少ないんじゃないかなあ。やっぱり,教育では機会の公平性って大事ですもんね。


では,実験をしなければエビデンスは得られないのかというと,そうでもないんです。30人学級の例で行くと,全国で同じような生徒が集まっている35人ぐらいのクラスと30人ぐらいのクラスを見つけてきて比較する。それでも実験のかわりになるんです。つまり,意図してクラス分けして比較するだけではない,もともと意図していないけど比較できるものがあれば,その比較でもじゅうぶんエビデンスがあるといえるんですね。実験室での出来事しかエビデンスにならないわけではない,動物や植物の生態学における観察による研究がエビデンス・ベースドとなるのと同じです。


エビデンスを得るやり方はたくさんあります。科学の正しい手法でエビデンスが得られるものであれば,僕はエビデンスをベースにした教育を考えるというのは大事なんじゃないかなと思います。


ちなみに,文科省がやってる全国学力テストとか教育委員会がやってる統一テストとかって,本来こういう使い方をするためにあるんじゃなかったかなと思うんですよね。でもなんだか違う感じに使われている。僕はあのテストをすることに必ずしも反対ではないんです。こういった,エビデンスをもたらすデータとしての使い方なら賛成ですが,学校の序列や学校予算の配分とかに使われるのには大反対なんですね。


しかしね。エビデンスを得るということで問題になるのが,「どうなったらよしとするのか(ダメとするのか)」なんですよね。たとえば,「35人学級よりも30人学級のほうが生活指導上効果がある」と仮説を立てたとします。ここで問題になるのが「生活指導上の効果」なんですね。なにをもって「効果」とするのか。「いじめの件数が減った」ことを「効果」とするのか,「生徒のクラス満足アンケートで点数が高かった」ことを「効果」とするのか,ほかにも尺度はいっぱい考えられますね。で,どの尺度を採用するのかに,調べる人の価値観が入っちゃうんです。その価値観が,生徒や保護者や社会の人たちと違っていたら,その教育方法は,いくらエビデンスがあるといってもアウトになってしまいます。教育方法を決めるための調査であれば,その尺度が多ければ多いほどその教育方法に満足する人が増えますが,ではどこまでたくさんの尺度で測ればいいのか,という問題が出てきます。ですので,そもそもエビデンス・ベースドの考えになじまない教育方法の選択もあるということです。


しかしそうはいっても,単なる思い付きや,自分の狭い経験にのみ基づいて教育をするというのも,やはり問題だと思います。エビデンスがある教育方法であっても,その教育方法をそのまま選択するのか,アレンジするならどうするのか,そのあたりに,先生の教育の専門家としての力量が試されるんでしょうね。


エビデンスを盲信してしまうのでもなく,またエビデンスを嫌うこともなく,うまくつきあっていけるようにしなきゃならないんでしょうね。先生も,科学的リテラシーが強く求められていると思います。統計の読み方や科学論文の読み方など,先生の研修なんかで,ぜひ取り入れてもらいたいと思います。

«誘拐された少女の卒業に,不登校児の卒業を思う