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2020年1月16日 (木)

明石市長暴言問題で考えたことなど

明石市長再び暴言で謝罪

https://www.kobe-np.co.jp/news/sougou/202001/0013035953.shtml?fbclid=IwAR1xkcxbshSmJ0-O4dnZdgAXm8QkAX3eOAUPxTJa63boTBe1GW5vEwFgYEo

 

この市長さんは、私が知らない人なので、あくまでも一般論ですが。

すぐにキレて暴言はいたり暴力ふるったりする人については、アンガーマネジメントもいいのですが、一方で、「そんなことでキレてしまう」傾向へのケアが必要で、どちらかというと、そのケアの方が大事だったりするんですよね。

そのためには、その人の今までの生き方などを振り返ってもらって、自分のキレポイントをみつけて、なんでそんなことでキレてしまうのかとか考えて、じゃあこれからどうすればキレなくなるのか考えて、って感じのカウンセリングになるかなあと思います。

これ、たぶん、前に職員に暴言をはいた時と、たぶん同じキレポイントだったのかなって思うんですよね。つまり、自分の思うように他人が動いてくれないとキレるという。ということは、この人は、相手が部下であるとか同僚であるとか他人であるとか、関係なくキレる人なんでしょうね。そういう意味では、いわゆるパワハラ系ではない、誰彼かまわず噛みつくパンクス系なのかもしれません。僕は、そういう生き方は嫌いじゃないですが、立場もある人ですから、相応な噛みつき方を学ぶべくなんでしょうね。そういったことも、カウンセリングでは扱います。

そう考えていくと、やっぱり復帰は早かったんでしょうね。

あと、今までのやり方をドラスティックに変えていこうとする候補者が当選した場合、彼と同じようになる可能性は、かなり高いと思います。ぶちあげた政策を実現しようとした場合、根回しとか地道な折衝がかなり必要になります。そういう作業は部下がやることになるのですが、なんせ時間と手間がかかる。自分の人気に間に合うかどうか。そうなると、どうしても、焦ってきたりして、追いつめられてきてしまう。そうなったときに、人間は、簡単にダークサイドに落ちるんです。

彼は、子育て分野で、世間に大きく評価される政策をしようとしていました。その政策に、世間の人たちは、称賛し期待してきました。その称賛と期待が、(自分で言いだしたことではありますが)彼をさらに追いつめてしまったのかもしれません。ドラスティックな変革をぶち上げる人を持ち上げて、多大な期待をする世間も、彼に暴言をはかせた原因の一人だということも、考えに入れておくべきかと思います。

2020年1月11日 (土)

皆勤賞は意味がない?

皆勤賞は意味がない、百害あって一利なしだという意見が出ています。皆勤賞を目指すために、病気なのに学校に出てきたとか、クラスで目指していたから、病気にかかってしまったことで、まわりから悪く言われたり、自分を責めてしまったり。たしかに、病気なのに出席しなきゃいけないとするのは、これはおかしなことです。病気になったら休む。これは、大原則なはずです。
では、なんで皆勤賞なんてものができたのでしょう。諸説あると思いますが、私が学生の時に聞いた話です。
 
勉強もできない、運動もできない、ほめるところがない子を、それでもどうやってほめるか、脚光を浴びさせるか、って探して、お、この子は休まずに来たな、これをほめようとできたのが、皆勤賞です。だから、いわば、掃除がんばったで賞とか、あいさつが元気よかったで賞、ぐらいのもんなんです。
 
だから、なのに皆勤賞を目指せとか、そこでまじめさとかやる気を評価するとかわけのわからん理屈がついてきたから、混乱するんですね。皆勤賞なんて、本来そんな価値はないことなんですよ。
 
これ、同じことが、部活の声出しにもあると聞いたことがあります。部活で、まわりでなにやら大声を出してるの、ありますよね。あれ、なんで大声出させてるかっていうと、下級生とかまだうまくできない子でも、大きな声なら出せるだろう、ってことで、お、元気の大きな声出せるな、ってほめてあげるために、やらせてるんだと。大きな声が出せたからといって、だからうまくなるなんて、誰も考えてないんです。できない子でももめポイントを作るために、やらせてるんだと。
 
皆勤賞も声出しも、その程度の意味しかないんですよ。なのにそれに、違う大きな意味を持たせてしまった。その弊害が出てしまっている。だからといってやめてしまったら、できない子のほめポイントがなくなってしまう。
 
一見意味のないことでも、実はなにかしら意味があることって、あるんです。でも、本来の意味とは違う意味を持たせてしまったことで、かえって混乱してしまい、本来の意味が薄れてしまうんですね。批判するなら、本来はどんな意味があってのことなのかも含めて、批判しなきゃと思います。
ちなみに、私は、それでも、皆勤賞はなくした方がいいかなと思っています。やはり、まじめさとか勤勉さとかをとても大切にする文化のなかでは、本来の意味を取り戻したとしても、やはりまた、今のようなことになりかねない。そういった危険を含む賞だと思います。だったら、最初からなくしてしまったほうが、私はいいかなと思います。どんな子でも、皆勤以外になにかしらほめポイントはあるはずですから、そういった危険がないほめポイントを見つけていけばいいと思います。

2019年5月29日 (水)

船越教育相談室ユーチューブチャンネル開設しました。

船越教育相談室ユーチューブチャンネル開設しました。

ここでは、子育てや教育についての情報や、私が考えていることなどを投稿しています。

ぜひご覧の上、チャンネル登録等よろしくお願いします。

URL

https://www.youtube.com/channel/UCZ-cmSjUgVaHsE799jqfODA

2018年4月25日 (水)

「星野君の二塁打」を考える~民主主義を教えるとは

「星野君の二塁打」という道徳教材が話題になっています。この話は、甲子太郎によって書かれ、1947年に『少年』に掲載されました。

あらすじは、少年野球チーム(もともとは旧制中学の野球部)の星野君は、監督の送りバントの指示に背いてヒッティングをして、結果二塁打になります。この二塁打のおかげで、チームは勝つことができました。試合後に監督から、指示に背いた星野君を、今後の試合に出さない旨の宣告がありました。その後、いくつかの改訂がされましたが、大きなあらすじは変わっていません。

今話題になっているのは、この監督の宣告です。つまり、監督の指示に背いて自分の判断でヒッティングをした星野君を罰する監督の、星野君の自由な判断を否定する判断が、個人を軽んじて集団に殉ずる価値観を植えつけるものだということなんですね。

たしかに、結果試合に勝ったわけですから、星野君は否定されるいわれはなく、かえってヒーローになってしかるべき人だと考えられます。また、いくらチームプレーであったとしても、監督の指示は絶対だというのは、子どもの自主性をおさえつけるもので、民主的ではないとも言えそうです。

しかし、この話を読んでみると、必ずしもそういった批判が当たるとは言えないように思えます。ポイントになるのは、試合後の監督の言葉にあります。引用します。

「(ぼくが、監督に就任する)そのとき、君たちは、喜んで、ぼくをむかえてくれると言った。そこで、ぼくは、君たちと相談して、チームの規則をきめたのだ。いったん、きめた以上は、それを守るのが当然だと思う。また、試合のときなどに、チームの作戟(ママ)としてきめたことには、絶対に服従してもらわなければならない、という話もした。君たちは、これにも快く賛成してくれた」(下記論文から孫引き)(この言葉は、言葉の変更はありましたが、意図するところは変わっていません)

ポイントとなるのは、
①この監督は、子どもと「相談して」規則を作ってきた
②子どもたちは、チームの作戦には服従することを「快く賛成」した

つまり、この監督は、子どもたちを話し合うことで合意を作りつつ民主的にチームを作っていこうとしていたと言えます。また、子どもたちは、話し合う暇がない時は(この言葉は、甲子太郎の原文には入っています)監督の考えに従うことを「同意」しているわけです。こうしてみると、この監督は決して非民主主義的で専制君主のようにチームを支配してきたわけではないと考えられます。

この話が書かれた1947年は、終戦後2年であり、日本国憲法が施行された年でもあります。民主主義の国を作ることに熱中していた時代です。民主主義では、メンバーの話し合いによって決めたことには従うというのは、最低限のルールです。下記論文に引用されている学習指導要領の述べるとおり、この教材は、そういった民主主義を教えるためのものであると言えるかと思います。

そう考えると、この監督が星野君を試合に出さなくしたことは、そう簡単には批判できないように思います。

しかし、私は、この監督を全面的に支持することはできません。もしこの監督が民主主義的にチーム運営をしたいのなら、星野君の処分を決める前に、星野君になぜヒッティングをしたのか聞くべきではなかったかと、つまり、星野君の申し開きの機会を与えるべきではなかったかと思います。民主主義的な手続きの中には、処分に対して自分の考えや事情を説明する機会を与えられる権利が入っています。一方的な処分は、およそ民主主義的とはいえません。

規則を破る人には、それ相応の考えや事情がある。処分をするときは、その事情を考慮に入れるべきである。私は、非行や犯罪についても、一方的な処分をするのはおかしいと思います。やってしまった人の考えや事情を大事にして、処分を決める。星野君だけでなくすべての非行少年や犯罪者も、そう接するべきだと考えています。

さて、ここで気になるのは、原文では、威圧的であるにしてもいちおう監督は、異議申し立ての機会を与えています。監督は処分をするときに、星野君に、この処分でいいか確認しているんですね。それで星野君は処分を受け入れますというやり取りがあるんです。でも、下記論文によると、改訂を経てこのくだりが抜けているようなんです。どうも、最近の方は、民主主義を教えるという意図が薄れて、ただチームのためばかり教えようとしているような印象を持ってしまいます。そのあたりも、もしかしたら批判の対象になっているのかもしれませんね。

この問題を考えるのに、ぜひ読んでいただきたい論文です。

「小学校体育科における 「知識」 領域の指- 教材 「星野君の二塁打」の検討 (二)-」功刀 俊雄 (奈良女子大学文学部)
http://nwudir.lib.nara-wu.ac.jp/dspace/bitstream/10935/2881/1/AA12388405V4_pp54-61.pdf


2018年4月13日 (金)

高校中退についての、前川喜平氏の発言に思うこと

前川喜平元文部事務次官が、高校中退に触れ、高校中退者を減らすために数学を必修にしないように提言しています。
https://togetter.com/li/1217275

この発言について、2つ考えてみたいと思います。

まず、高校中退者についてです。高校中退者に貧困や自己肯定感に低さがあると主張しています。それで、高校中退を防がなければならないと。たしかに、私も、高校中退者にそういった特徴があると思います。しかし、だから高校中退を防がなければならないという結論には、ちょっと待ったをかけたいんです。

高校中退したら、どうして貧困になったり自己肯定感が低くなったりするんでしょうか。今は学歴社会です。学歴が低い人は、不当に低い賃金で働かされることが多いです。また、学歴が低いことで、他人から低く見られることもあります。そういった社会によって、高校中退者が、貧困になったり自己肯定感が低くなったりするんです。

不当に低い賃金で働かされたり、低く見られたりといったことは、国民みんなが、お互いの人格を尊重すべきという社会正義に照らして、あるべきことではありません。高校中退者がそういった社会正義にもとる扱いをされるのであれば、高校中退者をすくうのは、高校中退させないことではなく、社会に酒井正義にもとる扱いをさせないことではないでしょうか。
これは、無職の人の再犯率が高いということで、刑務所出所者や少年院出院者に、なんとかして就職をさせようとする、今の更生保護の考え方にも通じます。出所者や出院者がなぜ再犯してしまうのか。生活保護受給の厳しさや、犯罪者というレッテル貼りなど、今の社会の無職の人に対する不当な扱いに起因しているのではないか。これは、社会正義にもとるのではないか。高校中退者も元犯罪者も、そのままでも尊重されるような社会を目指すべきだと、私は考えます。

2つ目。高校中退を防ぐために数学を必修にしないことについて。

高校での数学の授業は、たしかに高等学校学習指導要領に基づいて、その期待する水準の授業をすることになってはいます。しかし、その水準に耐えられない生徒もいます。そういう生徒には、その生徒にあった授業ができるようにすればいいのではないでしょうか。その子にあわせた授業をすることこそ、その子を尊重するということではないでしょうか。その子にあわせた授業ができないような、学習指導要領体制にこそ、私は問題があると考えます。

彼の主張は、学校は学習指導要領で決められた授業をするのが前提になっています。学習指導要領体制をどうしても崩したくないのでしょう。既成の枠組みを崩すことなく問題を解決しようとする考えは、不登校児を変えることに専念し、不登校を生み出す学校の仕組みは温存しようとする、今の不登校についての取り組みにも通じます。

人に対する不当な扱いをそのままにすることを前提とする考えには、私は同意できません。

ちなみに、文科省の統計では、「学業の不振」は8.6%です。「学業」の中には、数学以外の教科も含まれるでしょうから、数学を必修にしなくなっても、それで高校を辞めなくてすむ人はそれ以下であるということです。数学を必修にしないことは、効果がないとは言いませんが、あまり高くないと言わざるをえません。

2018年2月22日 (木)

先生の研修充実について

先生の研修を充実させましょうという動きがあります。先生のスキルを向上させて、学校の教育レベルをあげましょうという意図だそうです。

この話によせて、思いだしたいことなど。大学の教育学の授業で、他はまーったく覚えてないんですけど、1つだけ覚えていることがあります。

教育活動は2つにわけることができる。1つは能動的教育活動、もう1つは消極的教育活動。
能動的教育活動とは、あることを教えようと思って被教育者に直接教える活動のことで、授業とか補習とか宿題のこと。消極的教育活動とは、勉強のこととかを自由に話できるような友達関係を作るなど、勉強を直接教えるわけではないが教育的に効果がある働きかけのこと。
で、教育活動を考えるときに、すぐに思いつくのが積極的教育活動であるが、ほんとうに大切なのは消極的教育活動である。勉強をしてほしかったら、カリキュラムの編成や教室の環境やクラス内の人間関係といったものを整えるべきである。

てなことでした。

まあ、学生の時は、そんなもんかと思ってましたけど、少年院に勤めだして、ほんとうにその通りだなと思うようになりました。

これ、子どもについてだけでなく、先生についても同じだと思うんですね。本当に先生に勉強してほしかったら、研修という能動的教育活動だけでなく、先生が勉強できる、やろうと思えるような労働環境や人間関係を作るといった、消極的教育活動を考えるのが、教育のプロである教育委員会の仕事だろうと思うわけです。

でも、無理だろうな。僕が見る限り、教育委員会管理職側は、どうも、先生の集団づくりっていう発想自体が、あんまりないように思う。というか、作るんじゃなくて壊す方向で考えてるんじゃないかって。これでは、いくら研修を積みあげても、無駄骨ばかりでダメなんじゃないかなと思いますねえ。

2018年2月 7日 (水)

どっちが偉い?~更生するたいへんさと真面目に生きるたいへんさ

ツイッターでこんな書き込みを見ました。

「元ヤンキー」を売りにしている人を見ると、伊集院光さんがラジオで「ヤンキーが立ち直るのは偉いかもしれないけど、ずっと真面目にやってた人の方がもっと偉いだろ」って言ってたの思い出す。
https://twitter.com/moritakayuki/status/960743039885963264

非行少年や犯罪者の更生にかかわっているものとして言いますが。ヤンキーの人が更生するって、かなりたいへんなことなんですよね。自分を変える努力と、まわりに受け入れてもらう努力。これらがちゃんとできてはじめて、「更生」となる。それって、たぶん、一般の人が思っているよりもかなりたいへんな努力が必要です。

真面目にやってきた人も、もちろん、悪い道にそれないように自分を律して生きてきたと思います。人間、簡単にダークサイドに堕ちてしまいますからね。そうならないように生きていくのも、意外とたいへんです。

私は、更生するたいへんさと、真面目に生きるたいへんさは、別のものだと思います。「元ヤンキー」で今は更生している人の偉さと、グレずに真面目に生きてきた人と、「偉さ」が違うと思うんですよね。ですので、「どっちが偉い」なんて単純に比較できないと思うんです。

「どっちが偉い」ではなく「どっちも偉い」でいいんじゃないでしょうか。



2018年2月 5日 (月)

「あたしおかあさんだがら」に感じる「そこじゃない感」

「あたしおかあさんだから」が話題になっていますね。

要約すると、お母さんになって、いろんなことを我慢しなきゃならくなったけど、あなたという子どもと出会えたから、それが一番幸せ、って感じの歌だと思います。

この歌に対して、様々な批判がされています。
「あたしおかあさんだから」の歌詞母親の自己犠牲を美化しすぎて炎上

たしかに、この歌詞を読めば、子どもと出会えて幸せなのだから、今の我慢はして当たり前なんだ、我慢しなさい、という歌だと思われてもしかたないでしょうね。そして、その我慢が当たり前であるというのは、当のお母さんにとっても、子どもにとっても、受け入れがたいと思うのもわかる気がします。

私がこの歌詞を読んで、もちろんそういった我慢の強要というところへの反感もあるのですが、子育てするにあたっての我慢について、どうも「そこじゃない感」を持ってしまったのです。

子育てに奮闘しているお母さんがもつ本当のたいへんさって、爪を伸ばせないことや甘口のカレーを作らなかやならないことやライブに行けないことじゃないと思うんです。子育てにかかるお金がかかりすぎる問題、世間や親せきからの「あるべき母親像」プレッシャー、次々と押し寄せてくる教育情報、働くお母さんなら職場の子育てに対する無理解、待機児童問題、そういったことが、お母さんをめぐる本当のたいへんさじゃないかと思うんです。

そういった本当のたいへんさに目をつぶって、表面的ないたいへんさを歌って「お母さんたちのことをわかってますよ」みたいに言ってることに、私は違和感を持つんです。

ちなみにこの作者の、のぶみさんは、前にも炎上していますね。
超人気絵本作家・のぶみ『このママにきーめた!』がおしつける母子の逃げられない結びつき

この本もそうだったんですけど、のぶみさんの言葉は、現代版お涙ちょうだいの安っぽいポエムなんです。子どもや育児で大変なお母さんといった、どっぷり当事者の目線ではなく、傍観者からの視線で書かれている。だから、どっぷり当事者からは「そこじゃない感」を持たれてしまい、反感買うんだと思うんですね。

当事者のことをわかるためには、どこまでも当事者の目線に自分をあわせることが大事です。自分にも、思いもあれば考えもある。でもその自分の思いや考えをできるだけ排除して、当事者が何を思って何を考えているのかに素直になること。
当事者のことを語るためには、当事者目線で語ること。それができないのは、当事者に対して失礼であること。私も今一度肝に銘じていきたいと思います。

2018年1月 8日 (月)

ベッキーさんの件と、死刑存続厳罰化支持について

けっこう前なんですが、「乃木坂ってどこ?」という番組で、乃木坂46の西野七瀬さんが、罰ゲームでジャガー横田さんから逆エビ固めを受けたことがあります。その後日談で西野さんが、
「あれは全然痛くなかった」
とのことでした。ユーチューブで当該シーンを観てみますと、はっきりいって、全然きまってませんでした。

そりゃそうです。プロのプロレスラー(って言い方はおかしいですが(^^)v)が、かよわいアイドルに、本気できめにいくわけがない。そんなことしたら、大ケガになります。プロのプロレスラーとかボクサーとかって、一般の人なら簡単にのしてしまえるぐらいのパワーとテクニックがあるんですからね。

だから、ベッキーさんの件も、ベッキーさんに痛い目にあわせたことが問題になるわけではないと思います。だって、痛い目にあってないから。

ただ、ああいった形で「みそぎ」にしようとしたことは、非難されてしかるべきでしょう。あたかも、AKB48の峯岸みなみさんの丸刈り事件を彷彿とさせるじゃないですか。体を傷めつけて辛い思いをして(またはその演出をして)許しを請うというやり方。あのときも、そういった許しの請い方が問題になったはずです。

しかし、体を傷めつけてつらい思いをして許しを請うというのは、実は広く世間で求められているのではないかと思います。死刑存続や厳罰化などは、まさに、犯罪者を傷めつけてつらい思いをさせることが目的でしょう。僕は、ベッキーさんの件や峯岸みなみさんの件を非難する人が、同じ口で死刑存続や厳罰化を支持または黙認するは、明らかに矛盾だと思います。そういう意味で、あのシーンは、世間に対する辛辣なアイロニーだと、僕は思いますね。

人を傷めつけることは、どんな理由があろうとも重大な人権侵害です。ベッキーさんや峰岸さんの人権を尊重するなら、犯罪者の人権も同じように尊重すべき。そのような罰を与えるのは、なにがあっても支持してはいけないと考えています。

2016年7月 5日 (火)

「どちらのため」ではなく「どちらものため」~いじめ調査の開示問題について


いじめが起こってその結果重大なことになってしまったとき,第三者委員会が組織されて調査をするケースが増えています。その第三者委員会の調査結果をいじめられた側に開示されないケースがあるようです。

学校が調査報告の公開にかなり慎重にならざるをえない事情も理解できるんです。今はいじめ事案が起こるとネットを介して様々な情報拡散が行われ,いじめた子の更生や人生に大きく影響がある現状があります。もしいじめの調査報告が本人や家族を通して公になると,それが関係者の中だけにとどまらず,ネット等によってひろく拡散されてしまう可能性が極めて高いのが現状です。すると,同じようにいじめた子のこれからの学校生活や人生に大きな悪影響を与えてしまうことになります。いじめた子のことを考えると,これは避けなければならない。

少年事件では,非行少年に関する情報は基本的に非公開です。審判結果も非公開ですし,被害者やその家族は,基本的に審判に出席もできません(今は一部のケースで遺族などが審判に出席したり審判結果を閲覧したりすることが可能になっています)。これは,非行少年のこれからの人生を守るため,その子が非行をしたことを社会に知らさないためです。いじめのケースでも同じように,いじめた子の更生のためにその事件の情報を制限することは,ある意味意義があることだといえるのではないかと思うんです。

しかしそうはいっても,いじめられた子やその家族が調査結果を知りたいと思う気持ちはじゅうぶん理解できます。特にいじめられた子がなくなった場合は,わが子になにが起こったのかを知りたいと思うのは家族として当然の気持ちですし,知ることは当然の権利だと思います。わが子に起こったことを知るためには,第三者委員会の調査しかない現状では,被害者やその家族が調査結果を求めるのは当然のことでしょう。実際少年事件の被害者やその家族が,審判結果を見れなかったり審判に出席できなかったりでやりきれない思いをしている現状もあります。

ということでこの問題を考えるには,いじめた子のために情報を開示しないのか,いじめられた子やその家族のために情報を開示するのかといった議論をしても平行線をたどるだけで解決にいたらないように思います。「どちらのため」ではなく「どちらものため」という視点ではない視点から考えなければならない問題ではないでしょうか。

なにがいじめた側いじめられた側双方のためになるのかをきちんと議論したうえで,その「双方のためになること」の中に調査結果がどう位置づけられるのかを考えて開示するのかしないのか決めるべきではないかと考えます。

何が双方のためになるのかは個々のケースでさまざまになるでしょう。一般的なマニュアルは作れないのではないかと思います。第三者委員会は,「このケースでは」何が双方のためになるのかも議論していただきたいと思います。そのためにも,第三者委員会の人選は,いじめられた側から推薦された委員に入ってもらうことが大事です(今はそうなってきているように思います)。

私は,いじめの問題を含めていろんな問題を,二律背反の構造にもっていっても解決にはならないだろうと考えています。どちらかにいいように,ではなく,どちらにもいいように,考えてきたいと思います。

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