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2013年1月11日 (金)

体罰と共依存~DVも含めて

「体罰と共依存」について考えます。共依存とは、最近アルコール依存症やDVなどでよく出てくる考え方です。被害者と加害者、両者のあいだに依存関係があると考えます。反社会的な行動を軸にした人間関係によく見られます。

 

例えば、DVについて考えてみましょう。DVの関係にあるカップルには、暴力を通した人間関係があります。加害者は被害者に対して暴力をふるう。被害者はその暴力を受けることによって、加害者との関係を保とうとする。

 

もう少し説明します。被害者は、加害者から逃げる自由があります(監禁・軟禁状態の場合は除きます)。しかし、逃げない。その人間関係を解消しない。逃げられないのではなく、逃げない。なぜか。

 

そこに、依存を見るのです。被害者が加害者に依存している。つまり、被害者が加害者の暴力を必要としているのです。言い換えれば、暴力による人間関係を必要としているということです。

 

びっくりされるかもしれません。暴力を受けることを必要とするなんて。たしかにそうです。普通に考えれば、そんな必要あるわけがありません。でも、実際あるのです。どういうことなのでしょうか。

 

ここで、人間関係の方法と内容を分けて考えます。この場合、方法は暴力です。その内容は、夫婦であったり恋愛であったりします。夫婦関係や恋愛関係は、その関係を解消する意志が自由に発揮される場合、依存関係ではありません。

 

しかし、その関係を解消したくない、その関係の中でしか自分は生きられない、そんな心理が働くと、そこに依存関係が生まれます。つまり、関係の内容が自分の存在肯定になると、自分が生きている証としてその関係を保とうとする意味で、依存関係になります。

 

たとえば、今流行っているらしい熟年離婚を見ます。専業主婦の妻は、金銭的に夫に依存しています。ですから、いくら離婚したいと思っても、離婚しません。お金がなかったら生きていけないからです。退職金や年金の分与という金銭的裏付けがあってから、金銭的依存がなくなってから、関係を解消します。

 

特に暴力は、その心理的影響の強さから、余計に強い依存関係を築くと言われます。こころに強いインパクトを与えるので、痛みや苦しみを感じることによって、より強く自分の存在を感じるのです。

 

ここで断っておきたいのは、依存することは、必ずしもネガティブなことではないということです。いわゆる健全な方法による人間関係は、そこに依存が見られるとしても、健全と考えられます。いくら良好な親子関係でも、そこに共依存関係があるのは、否めません。

 

依存が問題になるのは、その関係を成り立たせる軸に問題がある場合です。暴力やアルコールなど、反社会的なものが軸になる関係のばあいがそうです。依存することが問題ではなく、その軸に問題があることを忘れないでください。

 

暴力を軸にした関係では、依存を軸にして自分の存在を確認するという関係があるために、正常な判断ができません。加えて心理的にも肉体的にも負担が大きいです。これら意味で、いい関係とは言えません。

 

外から見ると、暴力によって支配されているように見えます。たしかにそういう一面もありますが、その関係が一方向ではないということです。被害者から加害者への、加害者支持の心理があるということです。

 

もちろん、加害者から被害者への依存があるのも、忘れてはいけません。相手を渇望するから、暴力をふるうのです。相手がいなくなると、大きな損失感を覚えます。相手に暴力をふるうことによって、自分の存在を確認しているのです。

 

DVが外に出ないのも、ここに原因があります。暴力をふるう人は、特に暴力的な人ではありません。ごく普通の人です。ですから、暴力を軸にした関係でなければ、およそ人に手をあげる人には見えません。

 

しかし、暴力を軸にした関係に入ると、事情が変わります。自分の存在を確認する作業としての暴力に没頭します。よく人が変わると言いますが、人が変わったわけではなく、その人間関係の中での振る舞いが変わったのです。

 

長々と書きましたが、この関係を先生と生徒に当てはめます。体罰が成り立つためには、その人間関係が暴力を軸にしていると考えられます。なぜそうなったのかは、様々です。先生が、その方法しか知らなかったのかもしれません。

 

特に先生と生徒関係では、共依存関係が作られやすいです。生徒から先生へは、指導をしてもらい自分を高める欲求から。先生から生徒へは、生徒がいなければ先生になれないから。

 

共依存の関係が成り立つと、どういう方法で関係を保つかが問題になります。そこで、先生から暴力を提示されても、生徒は依存関係にありますから、拒否できません。受け入れることになります。

 

そして、体罰は日常になるのです。体罰は、暴力が軸になった共依存関係において成り立ちます。その関係では、暴力は悪いことではありません。むしろ、その関係を強固にする手段として、歓迎されます。

 

体罰がなくならないのは、こういうメカニズムからなのです。ですから、体罰をなくすためには、人間関係から暴力という方法を排除しなければなりません。どうすればいいでしょうか。

 

この、共依存関係を解消しやすくすることだと考えています。部活動では、そのクラブにいなければ、大会にも出られないし、スポーツで食べていくこともできません。逃げ場がないのです。

 

ですから、学校外のクラブチームを充実させるのも、方法です。本当がどうかはわかりませんが、サッカーは比較的体罰が少ないそうです。部活動だけでなく、プロのジュニアチームが充実しているので、部活だけでなく、プロを目指せるのです。

 

ちなみに、この関係は、先生と保護者のあいだにもあります。よく、体罰で処分される先生の減刑嘆願書が回ってきます。普通に考えれば、体罰する先生ですから、学校にいて欲しくないはずです。でも、たくさん集まる。なぜか。

 

先生と保護者に、子どもに対する暴力という軸があるからです。保護者は、子どもにスポーツなどで活躍して欲しいと思っています。そのために、学校に依存しています。その依存関係を保つための手段としての嘆願書です。関係の手段は考慮に入りません。

 

いかがでしょうか。共依存の考えは、その名前から誤解されやすいです。実際、誤解している使い方を見るときもあります。でも、特に反社会的な行動、アルコールや薬物依存・非行犯罪などの裏に、この関係が見られることが多いです。

 

ほかの問題行動における共依存については、また機会をあらためます。長文、お疲れ様でした。もし、疑問点などありましたら、気軽に連絡してくださいね。

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