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2015年9月 7日 (月)

これって親の「見栄」なんでしょうか~子どもを区別しない教育を

障害がある子どもを普通学級に入れたいと願う親御さんがおられます。そういう親御さんは、自分の「見栄」のために子どもを普通学級に入れたいと願っていると、この記事に筆者はおっしゃいます。この記事から引用します。
「この子を集団の中に入れて訓練すれば何とかなるのではないか?」
「通常学級に入れていれば、そのうち慣れて、周りの子ども達から
たくさんのことを学び取ることができるのではないか?」
「普通になって欲しい。みんなと同じようになって欲しい」
「みんなと一緒にいろんなことが同じように出来るようになってほしい」
こういった親の気持ちが、この記事の筆者にとっては「見栄をはる」なんですね。
そもそも「見栄」ってなんでしょうか。ネット辞書から引用します。
1 見た目。外観。みば。「―を飾る」
2 (見栄)見た目の姿を意識して、実際以上によく見せようとする態度。「―で英字新聞を読む」
3 (見得)歌舞伎の演技・演出の一。俳優が、感情の高揚した場面で、一瞬動きを停止して、にらむようにして一定のポーズをとること。
http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/210855/m0u/
そして「見栄をはる」とは、
うわべを飾る。外観を繕う。「恋人の手前―・る」
http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/210858/m0u/
つまり、なかみはそんなによくないのに見た目よくみせようとしている。それが「見栄をはる」という意味ですね。ということは、この記事の筆者は、「親御さんが」特別支援学級や特別支援学校よりも普通学級のほうがいいと思っていて、子どもを普通学級に入れたほうが見た目がいいから、親は子どもを普通学級に入れたがるんだといいたいのでしょうか。
さて。じゃあ親御さんはほんとうに「見栄をは」って子どもを普通学級に入れたいと思ってるのでしょうか。たしかにそういった面もあるかと思います。障害があるというのは、社会ではまだまだマイナスのこととして認識されています。学校では、ある程度の発達速度が同じ子どもを集めて集団学習をすることが前提ですので、そこ方あふれた人はどうしても「劣った人」とみなされやすいです。特別支援学級や特別支援学校に通っていることが「レッテル」になった経験もお持ちでしょう。だから、子どもに普通学級に「かたちだけでも」入ってほしいという気持ち、ないわけではないのかもしれません。
でも、私が出会う親御さんは、その子の「将来」を考えて普通学級を希望される方が多いです。特別支援学級や特別支援学校での今までの実績では、ほかの子どもと物理的に隔離されたところで育ち、就労先も隔離されたところに限られている現状があるわけです。そういう先輩たちの姿を見て、わが子がほかの子と同じように社会に旅立つためには、普通学級でほかの子と一緒に育つほうがいいと考える。だから普通学級を希望するんです。
実はこういった親御さんの考えのほうが、障害のあるなしにかかわらずすべてのひとを包み込む社会としてのインクルーシブな社会により近いんですね。インクルーシブ教育では、いろいろな考えはありますが、障害のあるなしにかかわらず同じ場所で教育を受けることが前提です。「同じ場所」。それをどこにするのか。特別支援学級や特別支援学校に普通学級を入れることよりも、普通学級に特別支援学級や特別支援学校を入れるほうが、理念にもかなっているし現実的です。
そういう考えで、親御さんは普通学級に入れたいと願っておられます。たぶんこの記事の筆者は、今の物理的に区別された特別支援学級や特別支援学校というあり方がベストだと考えておられるのでしょう。私も、今の状態では同じ意見です。今の普通学級のあり方に障害を持つ子どもは入りにくいでしょう。もちろん、だからといって今のままでいいとは考えていません。障害がある子どもも、障害以外でほかの多数の子どもと違う子どもも、すべての子どもを包み込むインクルーシブ(包摂した)な学級を実現する方向で進んでいかなければなりません。
多様な子どもが集うインクルーシブな学級こそが、平等な学級です。そのための、いわば平等を勝ち取るための、障害がある子どもの普通学級進学であると考えると、けっして親御さんたちは「見栄」のために動いていおられるのではないといえます。むしろ逆で、物理的に区別された学級に、区別された子どもを入れるやり方のほうが不平等であることをいいたいのではないでしょうか。
区別は差別ではないという考えもありますが、区別するときにその基準になるのはその人の価値観ですし、権威ある人の価値観による区別が、社会的な差別につながることにもなります。一人一人を区別するのは差別にはなりませんが、グループわけしたら、どうしてもそこに個人や社会の価値観が入り込み優劣をつけてしまい、そして差別につながります。ものを差別してもさして問題はありませんが、人間を差別することは許されません。ものを区別するのと人間を区別するのとは事情が違うんです。私の、この記事への違和感は、この記事の筆者が子どもを区別してグループわけすることを前提にして論を進めているように思えたところにあるのです。
子どもに限らず人間を区別してグループわけすると、各自が一人一人にきちんと向き合う必要がないぶん社会的には楽でしょう。でも、それで区別され社会のメインストリームから排除される人が出るのであれば、グループ分けの是非を根本から考え直す必要があるのではないでしょうか。人を区別しないということは、自分も区別されないということです。みんなが区別されないインクルーシブな社会の実現こそが、平等な社会ではないかと考えています。

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