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2016年4月

2016年4月16日 (土)

こころが弱った人に必要なもの~熊本の地震に考える

うちの相談室には,今まさに子どもが非行に走っているとか学校に行かないとかいったしんどさを持った親御さんが来られます。

そんな親御さん,心配や不安や自責の念などでほんとうにくたくたになっておられます。私から見ても,このまま帰して大丈夫だろうかと思うほどやつれてしまっている親御さんもおられます。

そんな親御さん,お子さんが非行や不登校などになったら,まわりの人から「あれをしなさいこれをしなさい」「ああしなさいこうしなさい」と「アドバイス」をたくさん受けます。

でもね。できないんですよ。こころも体もくたくたで,「こうやらねば」というのはわかっているんだけど,動けない。

まわりの人はそんな親御さんを見て,「子どもから逃げている」とか「親としての責任を果たそうとしない」とか言っちゃって,親御さんをがんばらそうとする。親御さんもがんばろうとする。でもできない。その悪循環。

まわりの人は,よかれと思って「アドバイス」するんですよね。でもね。それが疲れ果てた親御さんをより追い詰めてしまうことになるっていうことなんです。

しんどい思いを持っている親御さんには,まず楽になってもらうこと。子どもと向き合う元気を取り戻してもらうこと。「どうするか」のアドバイスはそれからです。よかれと思ってすることが常に相手のためになるとは限らない。かえって追いつめることになるかもしれない。私は私のところに来る親御さんに接するときはいつも,自分の言葉は相手を追い詰めていないか厳しくチェックしています。

先日の平成28年熊本地震で非難されている方々に向けて,いろいろな「ああしなさいこうしなさい」がネットで流れています。まだ被災して何日もたっていない状況では,被災者の方々は生きているのが精いっぱいの状態です。支援者も,生かしておくのが精いっぱい。そんな中で,生き死に関わらない「ああしなさいこうしなさい」をあびせられた方々はどう思うんだろう。

まわりの人にとってはとても大切なことかもしれない。しかしそれは極限状態に置かれた人の生き死に必要なことなのか。そういうことを今一度考えて発信すべきではないかと思います。

ネットの情報ですから,自分がいらなきゃ捨てればいいと考えるかもしれませんが,実際受け取るほうの人はそう思えません。情報の取捨選択ができるほど元気ではないからです。

被災者の方々や支援者が元気になってほしいと思った情報を流す。今はネット社会ですから,被災者の方々や支援者がほしい情報はその人たちから発信できます。

今はそっとしておいてあげてほしいと思っています。

2016年4月 3日 (日)

エビデンスがある教育

エビデンスに基づいた教育をしなきゃならないっていいますよね。エビデンスっていうのは科学的な根拠ということで,たとえばある仮説を立てて実験をしてそうなること(ならないこと)が確認されたものなんかはエビデンスになります。


たとえば,「酸素と水素を化合させたら水になる」(これが仮説)。ほんまかいなって思って実際に化合させてみる(これが実験)。すると水になった。なるほど。酸素と水素を化合させたら水になるは正解やな,ってことになる。


じゃあ教育の分野ではどうか。たとえば「35人学級よりも30人学級のほうが学力が上がる」(仮説)のエビデンスがほしいとなったらどうするか。まず生徒の学力や親の経済力や塾などに行っている人数などが同じである2つ以上のクラスを作って,片方は35人もう片方は30人のクラスにして,それで同じ授業をやる(実験)。それでテストをして点数がどれだけ違うかを比べてみる。30人のクラスのほうが点数が高かったら,この仮説は正しいとする。これがエビデンスになります。


しかしねえ。こういう実験って,現場はすごく抵抗あると思いますよ。だってね。もし35人学級のほうが点数が低かったら,そのクラスの子どもや保護者は,いやですよねえ。いくら事前に説明してその実験が社会的に有意義なものだってわかってても,やっぱり自分は30人のクラスに入れてもらいたかったって思うでしょう。先生だって,かわいそうだと思っちゃうでしょうしね。そりゃ,先生にとってその学年はこれから何度もあるでしょうけど,その子にとってその学年は一生に一度しかないんですから。


医学では,大学病院の附属病院は,治療のための実験施設ですから,たとえば新薬なんかの効き目を試したり新しい手術のしかたを試したりがされています。教育では,教育学部の附属学校がそれにあたるとされているんですけど,実際はそうなっていない。僕が教育大学にいるときも,附属の先生が「子どもはモルモットではない」なんて言って,実験的なことをしなかったんです。今はどうかわかりませんけどね。僕は,「なら,何のための附属やねん」って思いましたけど。附属ですらそうなんですから,ほかの学校ではさらに実験に対する抵抗は強いでしょうね。


つまり,エビデンスがほしいと思っても,そのための実験をしていいものと悪いものがあるということなんですね。教育や子育てでは,していい実験って案外少ないんじゃないかなあ。やっぱり,教育では機会の公平性って大事ですもんね。


では,実験をしなければエビデンスは得られないのかというと,そうでもないんです。30人学級の例で行くと,全国で同じような生徒が集まっている35人ぐらいのクラスと30人ぐらいのクラスを見つけてきて比較する。それでも実験のかわりになるんです。つまり,意図してクラス分けして比較するだけではない,もともと意図していないけど比較できるものがあれば,その比較でもじゅうぶんエビデンスがあるといえるんですね。実験室での出来事しかエビデンスにならないわけではない,動物や植物の生態学における観察による研究がエビデンス・ベースドとなるのと同じです。


エビデンスを得るやり方はたくさんあります。科学の正しい手法でエビデンスが得られるものであれば,僕はエビデンスをベースにした教育を考えるというのは大事なんじゃないかなと思います。


ちなみに,文科省がやってる全国学力テストとか教育委員会がやってる統一テストとかって,本来こういう使い方をするためにあるんじゃなかったかなと思うんですよね。でもなんだか違う感じに使われている。僕はあのテストをすることに必ずしも反対ではないんです。こういった,エビデンスをもたらすデータとしての使い方なら賛成ですが,学校の序列や学校予算の配分とかに使われるのには大反対なんですね。


しかしね。エビデンスを得るということで問題になるのが,「どうなったらよしとするのか(ダメとするのか)」なんですよね。たとえば,「35人学級よりも30人学級のほうが生活指導上効果がある」と仮説を立てたとします。ここで問題になるのが「生活指導上の効果」なんですね。なにをもって「効果」とするのか。「いじめの件数が減った」ことを「効果」とするのか,「生徒のクラス満足アンケートで点数が高かった」ことを「効果」とするのか,ほかにも尺度はいっぱい考えられますね。で,どの尺度を採用するのかに,調べる人の価値観が入っちゃうんです。その価値観が,生徒や保護者や社会の人たちと違っていたら,その教育方法は,いくらエビデンスがあるといってもアウトになってしまいます。教育方法を決めるための調査であれば,その尺度が多ければ多いほどその教育方法に満足する人が増えますが,ではどこまでたくさんの尺度で測ればいいのか,という問題が出てきます。ですので,そもそもエビデンス・ベースドの考えになじまない教育方法の選択もあるということです。


しかしそうはいっても,単なる思い付きや,自分の狭い経験にのみ基づいて教育をするというのも,やはり問題だと思います。エビデンスがある教育方法であっても,その教育方法をそのまま選択するのか,アレンジするならどうするのか,そのあたりに,先生の教育の専門家としての力量が試されるんでしょうね。


エビデンスを盲信してしまうのでもなく,またエビデンスを嫌うこともなく,うまくつきあっていけるようにしなきゃならないんでしょうね。先生も,科学的リテラシーが強く求められていると思います。統計の読み方や科学論文の読み方など,先生の研修なんかで,ぜひ取り入れてもらいたいと思います。

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