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2016年5月

2016年5月15日 (日)

「カルテ」の使い方~その子の「歴史的資料」としての「カルテ」

「障害ある子の「カルテ」義務化 小中高共通,学校が作成

少年院には,少年の身柄とともに「少年記録」と呼ばれる資料が来ます。少年記録には,警察の調書や少年鑑別所の鑑別結果,家庭裁判所調査官の調査記録,審判結果など,この少年についてのすべての資料がそろっています。私は,自分が担任することになった少年についてはこの少年記録を全部読みました。しかし,実際少年に会って,いっしょに生活をし面接を繰り返していくうちに,少年が記録にない姿を見せることがあるんです。あれ,少年記録にはこう書いてあったはずなのにな,って思っちゃうんです。

もちろん,鑑別や調査が間違っていたわけではありません。鑑別や調査をした人から見た少年の姿と私から見た姿が違っていただけのことです。円柱って,上から見たら丸いけど横から見たら四角いですよね。同じものでも違う角度から見たら違う姿を見せるんです。鑑別技官や家裁調査官と法務教官とではその子を見る目的が違いますから,視点が違って当たり前です。また,少年は日々変化していきます。社会にいる頃と鑑別所にいる頃と少年院に入った頃とでは,いろんな人との出会いや生活環境の変化で別人のように変わってしまうこともしばしばです。

ですので,少年記録は,「その時のその人が見た」記録,いわば「歴史的資料」であると「理解して」使わなければなりません。

さて。この記事では障害を持つ子どもの「カルテ」を作って引き継ぎなさいとする規則ができるとのことです。今までその子についての引継ぎがちゃんとされていなかったので,適切な指導ができなかったということです。

今までその子のことを引き継ぎできていなかったのであれば,たしかに,指導がぶつ切りになってうまくいかないこともあったでしょうね。 ただ,じゃあカルテを作って引き継ぎすればうまく指導ができるかと言えば,そうでもないんですね。カルテはあくまでも「その時のその人(先生)が見た」記録に過ぎないですから,カルテに書いてある子どもの姿と実際目の前にいる子どもの姿が違っていることも多々出てくると思うんです。先生は「今の」「自分の目で見た」子どもの姿を基に指導しなければなりませんから,そうなると「カルテ」は使えないな,って思っちゃうんですね。実際少年院でも,だから少年記録を見ない先生もいたんです(もちろんその先生は,自分の目で今の少年を見てすばらしい指導をされていました)。

かといってじゃあ,「カルテ」なんて使えないものはいらない,っていうのも違うと思うんですね。その子を見るとき,まっさらの目で見てその子を理解するのって,けっこう時間がかかります。学校でその時間を費やすことができるのかというと,たぶん無理でしょう。その子を理解するまで,当てが外れた指導をしてしまうことになってしまいがちになります。ならば,前の人はどう理解したのかを「参考」にして,自分が見えた姿とその記録とあっているところや違っているところをもとにその子を見るというやり方のほうが早いんですね。

一方,カルテに書かれていることを忠実に受け入れて,あたかもそこに書かれていることのみが正しいと考えるのもおかしいですね。こういうことがあるんです。ある先生がその子を見て違う先生に「〇〇さんって~ですよね」と言ったとします。言われた先生が「いや,申し送り(つまり「カルテ」)には違うように書かれていますので,その見方は間違っています」と答えるんです。マニュアル主義の先生なんかは,こう答えそうですね。「カルテ」がこのような使われたかをするのも,違うと思いますね。

「カルテ」はあくまでその子理解の「歴史的資料」にすぎません。必要以上に軽んじたり重んじたりすることなく,自分のその子理解のためにうまく使っていただいて,いい指導をしていただきたいと思います。

2016年5月11日 (水)

正しさの違い~文科省は子どもの自殺を把握できていないのか

「中学生の自殺 文科省 半数把握できず」 http://bylines.news.yahoo.co.jp/ryouchida/20160511-00057538/

「気がかりなデータがある。警察庁が把握している中学生の自殺件数と、文部科学省が把握しているそれとを比べてみると、とくに近年、両者の間に大きな差が認められるのだ。 グラフを見てもらいたい。1990年代半ば頃までは、警察庁の数字と文科省の数字は似通っている。つまりこの日本社会で起きた中学生の自殺事案については、文科省もその実態をほぼ正確に把握していた。 だが、1990年代後半頃から、両者の間に大きな開きがみられるようになる。年によってその程度は異なるものの、文科省は毎年おおむね4~5割の自殺事案を把握していない。 たとえば2014年に関していうと、警察庁が99件であるのに対して、文科省は54件のみの把握にとどまっている。警察庁が把握した事案のうち45.5%について、文科省はその実態を把握できていない、「直視」できていないのだ」

統計を見るときの基本として,この統計は「誰が」数えているのかを確認しなければなりません。たとえば「スイカ」は果物か野菜か論争があります。果物派は「果物屋さんで売ってるから果物だ」とします。野菜派は「木になっていないから野菜だ」とします(注1)。実際数えるときは果物か野菜かを決めておきます(定義づけといいます)が,数える団体が違ったりして定義づけが違う場合もあります。すると,「果物」を数えるにしても,「スイカ」を果物に数える人(団体)が数えるか野菜に数える人(団体)かで数が変わってきますね。「自殺」であっても,数える人(団体)が違うと,あるケースを自殺と数えるか数えないかが違ってきます。すると,全体の数が変わってくるのは当然ですよね。

警察の統計では,警察の捜査によって自殺であるとしたものを自殺として数えています(注2)。学校では,「年度間に死亡した児童生徒のうち,警察等の関係機関とも連携し,学校が把握することができた情報を基に,自殺であると判断したもの」を自殺と数えています(注3)。つまり,これが自殺だと「判断する人(団体)」が違うということです。

なんだか哲学的な話になりますが,そもそもモノや現象は,後から誰かがある定義に基づいて「これはこうだ」と判断(分類)してはじめてそのものになる(または名前がつく)んです。スイカだって,誰かがそれを「スイカだ」って判断(分類)しなきゃ,スイカとして自然界にあるわけではないんです。もしスイカに違う定義を持つ人たちがいたら,その人たちの中では「これはスイカではな」くなります。そこで「これはスイカか」論争をしても,もともとのスイカの定義が違うんですから,平行線のままですよね。これは,どちらが正しいではなく,人によって正しさが違うんです。

警察の数え方が正しいと考える人にとっては,文科省の数えた数が少ないんですから,文科省の数え方では「把握できていない」と思うかもしれませんね。では,文科省の数え方が正しいとする立場から見ると,警察の数え方は,「自殺に数えようとしたがっている」ように思えませんか。立場が違うと同じ統計も見え方が違ってくるんです。そしてそれはどちらが正しいという話ではないんです。私は,正しさが違う人たちに対して「把握できていない」だとか「直視できていない」だとか,相手に自分の正しさをおしつけるような議論をしても,議論が平行線になるだけでなんにも得られるものはないと思います。

もっというと,理論的には,警察は自殺と数えていないけど学校はそうだと数えている,つまり警察が「把握できていない」ケースもあるということになりますね。ですので,学校が警察よりも把握できていないっていうためには,警察が数えた個々のケースと学校が数えた個々のケースをつきあわせて,学校が把握していて警察が把握していないケースはないことを確認しなきゃなりません。単純に数を比較するだけでは判断できないでしょう。

そもそもね。個々のケースが自殺であるかないかの判断(分類)を論争するよりも,その子の死をそのまま受け入れて考えるようにすることが大事ではないでしょうか。そうすると,その死を自殺と数えるかどうかなんて「どうでもいい」ことになるんじゃないかと思います。

そしてそういう態度が,亡くなった命に対するせめてもの供養になるんじゃないのかと思います。

(注1)果物と野菜の区別についてはこちら。明確な区別はないようです。 http://www.maff.go.jp/j/seisan/ryutu/yasai/yasai_teigi/

(注2)ちなみに,厚生労働省の「人口動態調査」における自殺者数も,警察の統計とは違っています。これも定義の違いです。その違いについてと,警察の自殺の定義についてはこちら。 http://www8.cao.go.jp/jisatsutaisaku/toukei/

(注3)http://www.mext.go.jp/b_menu/toukei/chousa01/shidou/yougo/1267642.htm

2016年5月 6日 (金)

学校の多忙さと民主主義的な教育

昨日は大阪にフランスの教育事情のお話を聞きに行きました。話者の大津先生は体罰ネットでお世話になっており,フランス留学から帰ってこられたばっかりでフランスのお話を聞きたかったので楽しみにしていました。

お話の中で,フランスの教育では学校からいかに宗教をなくしていくかがテーマの一つになっている,とありました。その点質疑応答で,最近はフランスもイスラームの家庭が増えたが,宗教を否定する学校の価値観と宗教を大切にする家庭との間で矛盾はないのか,という問いがありました。フランスでは,学校は宗教をなくしていくが,家庭が宗教を信じることについては不問である,つまり学校では宗教を否定するがだからといって家庭で宗教を否定すべきだとは言っていない,家庭が宗教を肯定するのは勝手にやればいい,との立場だということでした。つまり,学校は家庭に教育観には口出ししませんよということです。

これ,日本ではどうかなと思って。日本では子どもをどういう人に育てるかについて,昔は教育勅語で決められていましたね,天皇のための臣民として育てると。戦後は教育基本法がそれにとってかわった。そこには子どもをどんな人に育てるかが書いてある。また教育基本法には家庭教育の条文もある。ということは学校も家庭も一緒になって法律に書かれているような子どもに育てなければならない。ですので,もし教育基本法に脱宗教が書いてあれば,家でも宗教を否定する子どもを育てろということになるんですね(もちろんそんなこと書いてないし書けませんよね)。ちなみに,日本でも教育基本法ができたとき,こんな基本法を作っていいのか,つまり子どもをどうんな人に育てるかなんて国が決めることじゃなくて個々の親が決めることじゃないか,それが民主主義なんじゃないのか,という主張もあったみたいです。フランスは多分こちらの考えなんでしょうね。

ちなみに,フランスでも学校では「共和制の価値を共有させる」ことになっています。共和制の国ですからね。共和制の国の教育としては共和制の価値を持ってもらうのを目標にするのは当然でしょう。その教育目標の中にライシテとわれる「脱宗教性」も入っています。でも,だからといって国民みんなが脱宗教をしなければならないわけではないです。宗教の自由は別にありますからね。だから,学校ではこうですけど個人がどう考えるかは自由,なんです。学校では脱宗教を教えても,子どもが宗教を信じるのは勝手なんですね。

とその場ではそこまでの話だったのですが。帰ってきて嫁とその話をしていたときに,はっと思ったんです。日本では国がこういう子どもに育てますを決めているんだったら,国が子どもを育てろと考えてもおかしくない。で,国の教育についての一番の出先機関は学校です。ですので,子どもの教育は学校がやれと。

そうすると,社会が子どもをこういう人に育てたいと思う,それを実現するためにその期待を法律に載せる。となると誰かが期待に応える教育しなきゃならない。誰がやるの?学校でしょと。だって教育の出先機関は学校なんだから。で,子どもをこう育てたいが増えてくると,その教育を担う学校の仕事も増えてくる。今は少子化で子どもへの期待が強くなってます。こう育ってほしいが増えてきています。となると,学校への期待もまた増えてくる。

ですので,いくら学校の先生などやお金を増やしても,社会の子どもにこう育ってほしいが減らないと,学校は肥大化するばかりでいつまでも今のまま忙しいことになってしまうということです。 学校の多忙なのは部活指導のせいだと主張して,部活指導をなくそうとする運動があります。たしかにそれは「今の」学校の多忙さの一つの原因ではあると思います。しかし,部活動をなくせば先生は暇になるかといえば,そうはならないでしょう。学校が社会の子どもにこう育ってほしいの受け皿になっていて,その期待が増えている以上は,学校の多忙さはなくなりません。部活指導がなくなっても新たな仕事が入ってきますから。 学校の多忙さをなんとかしなきゃならないのであれば,子どもへの期待の実現を学校に押し付けないことです。そのためには,子どもへの期待を法律という形で社会で共有することは極力避けて,子どもの教育を国民それぞれが独自の考えでやること。みんな同じ子どもに育てようとせず,それぞれの子どもの育ちでOKにすること。それが民主主義的な教育のある姿ではないかと考えます。
 

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