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2016年6月 5日 (日)

体罰は「行きすぎた」指導なのか

体罰などがあると「行きすぎだった」と言われます。いつも私はその言葉に違和感を持ちます。



「行きすぎ」ってどういうことだろうと。

体罰などが「行きすぎ」だっていう考えの前提は,指導方法に段階があって,体罰などにいたる前に何かほかの指導があって,その指導の域を超えた先に体罰などがあるということでしょう。体罰などが「行きすぎ」だというのは,本来ならば体罰などまでにいたらない段階の指導をするべきなのにしなかった,という意味なんでしょう。


では,体罰など様々な指導の段階はどうやって決められているのでしょうか。一般的にはその指導の「厳しさ」によって決められているようですね。たとえば,優しい口調で叱るのときつい口調で叱るのとでは,きつい口調のほうが厳しい,口で叱ると体罰とでは,体罰のほうが厳しい,と言った具合です。そして,より厳しい段階のやり方が効果があると思われています。それで指導の「厳しさ」に段階をつけて,そこに子どもを当てはめる。「この子は何度もやっているから,きつい口調で叱るに値する」とか「この子は初めてやったことだから優しい口調で叱る程度でいい」とか。


しかし,子どもをその序列にあてはめるときに,どうしても大人の思いが入ってしまうんですね。その子をなんとかしなきゃ,っていう思いが強い大人は,どうしても子どもを厳しい段階にあてはめようとしてしまいます。また,教育方法の「厳しさ」の段階って,そもそもできないんじゃないのかともいえます。ある子にしたら,優しく言ってもらうほうが,きつい言い方をされるよりもこたえる,っていうこともあります。教育方法の序列に子どもを当てはめるやり方では,その子どもと教育方法とがうまくマッチしないでズレができてしまうんですね。


私は,そもそも教育方法の「厳しさ」による序列に子どもを当てはめる発想は,もはや使えないだろうと考えます。子どもを教育するときにどんな方法を選択するかは「厳しさ」基準ではなく,その子の問題に合わせたやり方を選択するようにすべきです。


そうして子どもにあわせた方法選択の中に体罰が入る余地があるのかを考えてみると,入る余地はないと言わざるをえません。なぜなら,体罰は子どもの尊厳を奪うものである以上,そもそもどんな教育目的であってもその達成につながらないからです。


指導方法に段階をつけるから,体罰があってしまうと思います。体罰は「行きすぎた」指導ではなく,そもそも指導の選択肢に入れない考えのもと,指導していく必要がるのではないでしょうか。

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