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2018年4月

2018年4月25日 (水)

「星野君の二塁打」を考える~民主主義を教えるとは

「星野君の二塁打」という道徳教材が話題になっています。この話は、甲子太郎によって書かれ、1947年に『少年』に掲載されました。

あらすじは、少年野球チーム(もともとは旧制中学の野球部)の星野君は、監督の送りバントの指示に背いてヒッティングをして、結果二塁打になります。この二塁打のおかげで、チームは勝つことができました。試合後に監督から、指示に背いた星野君を、今後の試合に出さない旨の宣告がありました。その後、いくつかの改訂がされましたが、大きなあらすじは変わっていません。

今話題になっているのは、この監督の宣告です。つまり、監督の指示に背いて自分の判断でヒッティングをした星野君を罰する監督の、星野君の自由な判断を否定する判断が、個人を軽んじて集団に殉ずる価値観を植えつけるものだということなんですね。

たしかに、結果試合に勝ったわけですから、星野君は否定されるいわれはなく、かえってヒーローになってしかるべき人だと考えられます。また、いくらチームプレーであったとしても、監督の指示は絶対だというのは、子どもの自主性をおさえつけるもので、民主的ではないとも言えそうです。

しかし、この話を読んでみると、必ずしもそういった批判が当たるとは言えないように思えます。ポイントになるのは、試合後の監督の言葉にあります。引用します。

「(ぼくが、監督に就任する)そのとき、君たちは、喜んで、ぼくをむかえてくれると言った。そこで、ぼくは、君たちと相談して、チームの規則をきめたのだ。いったん、きめた以上は、それを守るのが当然だと思う。また、試合のときなどに、チームの作戟(ママ)としてきめたことには、絶対に服従してもらわなければならない、という話もした。君たちは、これにも快く賛成してくれた」(下記論文から孫引き)(この言葉は、言葉の変更はありましたが、意図するところは変わっていません)

ポイントとなるのは、
①この監督は、子どもと「相談して」規則を作ってきた
②子どもたちは、チームの作戦には服従することを「快く賛成」した

つまり、この監督は、子どもたちを話し合うことで合意を作りつつ民主的にチームを作っていこうとしていたと言えます。また、子どもたちは、話し合う暇がない時は(この言葉は、甲子太郎の原文には入っています)監督の考えに従うことを「同意」しているわけです。こうしてみると、この監督は決して非民主主義的で専制君主のようにチームを支配してきたわけではないと考えられます。

この話が書かれた1947年は、終戦後2年であり、日本国憲法が施行された年でもあります。民主主義の国を作ることに熱中していた時代です。民主主義では、メンバーの話し合いによって決めたことには従うというのは、最低限のルールです。下記論文に引用されている学習指導要領の述べるとおり、この教材は、そういった民主主義を教えるためのものであると言えるかと思います。

そう考えると、この監督が星野君を試合に出さなくしたことは、そう簡単には批判できないように思います。

しかし、私は、この監督を全面的に支持することはできません。もしこの監督が民主主義的にチーム運営をしたいのなら、星野君の処分を決める前に、星野君になぜヒッティングをしたのか聞くべきではなかったかと、つまり、星野君の申し開きの機会を与えるべきではなかったかと思います。民主主義的な手続きの中には、処分に対して自分の考えや事情を説明する機会を与えられる権利が入っています。一方的な処分は、およそ民主主義的とはいえません。

規則を破る人には、それ相応の考えや事情がある。処分をするときは、その事情を考慮に入れるべきである。私は、非行や犯罪についても、一方的な処分をするのはおかしいと思います。やってしまった人の考えや事情を大事にして、処分を決める。星野君だけでなくすべての非行少年や犯罪者も、そう接するべきだと考えています。

さて、ここで気になるのは、原文では、威圧的であるにしてもいちおう監督は、異議申し立ての機会を与えています。監督は処分をするときに、星野君に、この処分でいいか確認しているんですね。それで星野君は処分を受け入れますというやり取りがあるんです。でも、下記論文によると、改訂を経てこのくだりが抜けているようなんです。どうも、最近の方は、民主主義を教えるという意図が薄れて、ただチームのためばかり教えようとしているような印象を持ってしまいます。そのあたりも、もしかしたら批判の対象になっているのかもしれませんね。

この問題を考えるのに、ぜひ読んでいただきたい論文です。

「小学校体育科における 「知識」 領域の指- 教材 「星野君の二塁打」の検討 (二)-」功刀 俊雄 (奈良女子大学文学部)
http://nwudir.lib.nara-wu.ac.jp/dspace/bitstream/10935/2881/1/AA12388405V4_pp54-61.pdf


2018年4月13日 (金)

高校中退についての、前川喜平氏の発言に思うこと

前川喜平元文部事務次官が、高校中退に触れ、高校中退者を減らすために数学を必修にしないように提言しています。
https://togetter.com/li/1217275

この発言について、2つ考えてみたいと思います。

まず、高校中退者についてです。高校中退者に貧困や自己肯定感に低さがあると主張しています。それで、高校中退を防がなければならないと。たしかに、私も、高校中退者にそういった特徴があると思います。しかし、だから高校中退を防がなければならないという結論には、ちょっと待ったをかけたいんです。

高校中退したら、どうして貧困になったり自己肯定感が低くなったりするんでしょうか。今は学歴社会です。学歴が低い人は、不当に低い賃金で働かされることが多いです。また、学歴が低いことで、他人から低く見られることもあります。そういった社会によって、高校中退者が、貧困になったり自己肯定感が低くなったりするんです。

不当に低い賃金で働かされたり、低く見られたりといったことは、国民みんなが、お互いの人格を尊重すべきという社会正義に照らして、あるべきことではありません。高校中退者がそういった社会正義にもとる扱いをされるのであれば、高校中退者をすくうのは、高校中退させないことではなく、社会に酒井正義にもとる扱いをさせないことではないでしょうか。
これは、無職の人の再犯率が高いということで、刑務所出所者や少年院出院者に、なんとかして就職をさせようとする、今の更生保護の考え方にも通じます。出所者や出院者がなぜ再犯してしまうのか。生活保護受給の厳しさや、犯罪者というレッテル貼りなど、今の社会の無職の人に対する不当な扱いに起因しているのではないか。これは、社会正義にもとるのではないか。高校中退者も元犯罪者も、そのままでも尊重されるような社会を目指すべきだと、私は考えます。

2つ目。高校中退を防ぐために数学を必修にしないことについて。

高校での数学の授業は、たしかに高等学校学習指導要領に基づいて、その期待する水準の授業をすることになってはいます。しかし、その水準に耐えられない生徒もいます。そういう生徒には、その生徒にあった授業ができるようにすればいいのではないでしょうか。その子にあわせた授業をすることこそ、その子を尊重するということではないでしょうか。その子にあわせた授業ができないような、学習指導要領体制にこそ、私は問題があると考えます。

彼の主張は、学校は学習指導要領で決められた授業をするのが前提になっています。学習指導要領体制をどうしても崩したくないのでしょう。既成の枠組みを崩すことなく問題を解決しようとする考えは、不登校児を変えることに専念し、不登校を生み出す学校の仕組みは温存しようとする、今の不登校についての取り組みにも通じます。

人に対する不当な扱いをそのままにすることを前提とする考えには、私は同意できません。

ちなみに、文科省の統計では、「学業の不振」は8.6%です。「学業」の中には、数学以外の教科も含まれるでしょうから、数学を必修にしなくなっても、それで高校を辞めなくてすむ人はそれ以下であるということです。数学を必修にしないことは、効果がないとは言いませんが、あまり高くないと言わざるをえません。

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