育児

2018年2月 5日 (月)

「あたしおかあさんだがら」に感じる「そこじゃない感」

「あたしおかあさんだから」が話題になっていますね。

要約すると、お母さんになって、いろんなことを我慢しなきゃならくなったけど、あなたという子どもと出会えたから、それが一番幸せ、って感じの歌だと思います。

この歌に対して、様々な批判がされています。
「あたしおかあさんだから」の歌詞母親の自己犠牲を美化しすぎて炎上

たしかに、この歌詞を読めば、子どもと出会えて幸せなのだから、今の我慢はして当たり前なんだ、我慢しなさい、という歌だと思われてもしかたないでしょうね。そして、その我慢が当たり前であるというのは、当のお母さんにとっても、子どもにとっても、受け入れがたいと思うのもわかる気がします。

私がこの歌詞を読んで、もちろんそういった我慢の強要というところへの反感もあるのですが、子育てするにあたっての我慢について、どうも「そこじゃない感」を持ってしまったのです。

子育てに奮闘しているお母さんがもつ本当のたいへんさって、爪を伸ばせないことや甘口のカレーを作らなかやならないことやライブに行けないことじゃないと思うんです。子育てにかかるお金がかかりすぎる問題、世間や親せきからの「あるべき母親像」プレッシャー、次々と押し寄せてくる教育情報、働くお母さんなら職場の子育てに対する無理解、待機児童問題、そういったことが、お母さんをめぐる本当のたいへんさじゃないかと思うんです。

そういった本当のたいへんさに目をつぶって、表面的ないたいへんさを歌って「お母さんたちのことをわかってますよ」みたいに言ってることに、私は違和感を持つんです。

ちなみにこの作者の、のぶみさんは、前にも炎上していますね。
超人気絵本作家・のぶみ『このママにきーめた!』がおしつける母子の逃げられない結びつき

この本もそうだったんですけど、のぶみさんの言葉は、現代版お涙ちょうだいの安っぽいポエムなんです。子どもや育児で大変なお母さんといった、どっぷり当事者の目線ではなく、傍観者からの視線で書かれている。だから、どっぷり当事者からは「そこじゃない感」を持たれてしまい、反感買うんだと思うんですね。

当事者のことをわかるためには、どこまでも当事者の目線に自分をあわせることが大事です。自分にも、思いもあれば考えもある。でもその自分の思いや考えをできるだけ排除して、当事者が何を思って何を考えているのかに素直になること。
当事者のことを語るためには、当事者目線で語ること。それができないのは、当事者に対して失礼であること。私も今一度肝に銘じていきたいと思います。

2015年3月26日 (木)

体罰の定義

世間では広く,体罰はダメだと言われています。でも,なくならない。どうしてでしょうか。私は,体罰の定義に問題はないかと考えています。
体罰の定義で広く使われているのは以下のものです。
「委員会は、「体」罰を、どんなに軽いものであっても、有形力が用いられ、かつ何らかの苦痛または不快感を引き起こすことを意図した罰と定義する。」(国連子どもの権利委員会一般意見8号 2006年 平野裕二訳)
整理すると,
1 有形力(直接的に人を殴るとか蹴ると言った直接的な暴力※)を行使し,
2 何らかの苦痛又は不快感を引き起こすことを「意図」した
罰だということです。
※『刑事事件弁護士ナビ』「暴行罪とは~刑事事件に感ずるコラム」から抜粋 https://keiji-pro.com/knowledge/boukouzai/)
1の「有形力」の行使については異論はありません。問題は2です。
苦痛や不快感を引き起こす「意図」でやった罰なのかが問題になっていますね。では,
a 苦痛や不快感を引き起こすことを「意図しなかった」ら,かつ,
b たたかれても苦痛や不快感を持たない人に対しては,
たたくことが体罰にならないということになってしまうのではないでしょうか。
たとえば,誰かを励まそうとして肩を軽くポンとたたく。これは体罰にならないのでしょうか。普通はならないと考えるでしょう。軽くたたかれたぐらいでは苦痛はないですし。自分を励まそうとしてやってくれたことですから。うれしいと思うことはあっても,セクハラを感じることがなければマイナスに取ることはないでしょう。これが,ドンと強くたたいたらどうでしょうか。ドンとたたかれたら,確かに痛いですね。
しかし,肩をたたく方も,励まそうとしてやったことですから,痛い思いをさせて「苦痛や不快感」を持たそうとしてやってるわけではないんですよね。そりゃ,たたかれたら痛いことぐらいは,普通の大人なら知っています。しかし,その痛みは,励まされてうれしい気持ちに拭い去られることも知っています。たたく方は,それをわかって,励まされてうれしいと思ってもらうことを意図してたたくんです。これが上記aの場合です。
また,たたかれるほうも,確かにたたかれた時は痛くても,これが自分を励ましてくれていることがわかったらどうでしょうか。たたいてくれた相手の気持ちがうれしいなんて思って,励まされた気持ちが「苦痛や不快感」を拭い去ってしまうのではないでしょうか。たとえば「活入れ」なんかを想像してください。それで気持ちがしゃんとして前向きになれたら,「たたかれたんじゃない。活を入れられたんだ」なんて。この経験が積み重なると,たたかれることが「苦痛や不快感」ではなくなってきます。これが上記bの場合です。
そう考えると,「苦痛や不快感」を与える「意図」なくたたくことは,体罰ではなくなってしまいます。実際「愛のムチ」論者は,たたくことで自分の愛情を子どもなどに伝えることを「意図」してたたいています。体罰をする人は,みんなが子ども憎しでたたいてるわけではないんです。また,「愛のムチ」論者には,たたかれて育った人もたくさんいます。自分がされた体験をありがたく思っているんですね。
たたかれたら誰でも「苦痛や不快感」を持つわけではありません。特に,「愛のムチ」を言い訳にたたかれてきた子どもは,たたかれても「苦痛や不快感」ではなく肯定的にとらえます。先にあげた体罰の定義を考えた人たちは,子どもはたたかれたら「苦痛や不快感」を持つものだという前提があるのでしょう。しかし,その前提にはずれる子どもたちもいるのです。そういった子どもたちなら体罰をして,もちろんいいはずがありません。
私は,この「苦痛や不快感」を与える「意図」でもってたたくことを体罰の定義にしたくないんです。
私は,体罰する側される側の「間柄」で判断したと思っています。支配被支配関係の間柄のなかで相手を支配する(つまり言うことをきかせる)ための有形力を「体罰」と考えたいです。もちろんこれは,単に私がそう考えているだけのものですし,まだまだ考えを練られていないので,大きな顔をして人に披露できる代物ではないですが。基本的にはこう考えたいです。
ちなみに,上記の肩をたたくケースでは,自分の言うことを相手にきかせるために励ます(先生の出した課題をやらせていて子どもがくじけそうになったときなどを想定しています)のであれば,先生が生徒をたたくのは,ポンとたたくのもNGです。たとえば子どもがしたいことをしようとしてでもくじけてしまっているのを励ましたい,というときは強くたたくのもOKです。先輩後輩でも同じです。友達同士でも,いじめの関係など支配被支配関係があれば,NGです。ほんとうにフラットな関係であれば,強くたたくのもOKです。また,普段フラットな関係でも,どちらかが(または集団で誰かに)何かを強く訴えかけると,お互いの気持ちの上で一時的な支配被支配関係になることもありますので,ケースバイケースで考えなければなりません。なお,OKのケースでも,ケガをさせたとかびっくりさせたとかこわがらせたとか,度を越した強さであれば,違う意味でNGになります。
余談です。体罰を快楽説で考えようとするあたり,西洋的(英語圏的?)だなあと思っています。もちろんだからダメだといっているわけではないですよ。ただ,なんとなくです。

2015年3月19日 (木)

在宅介護と子育て

先日ある研究会で,自宅で介護をしている家族がたいへんな生活をしている実態の報告を聞く機会がありました。調査した家族のほぼ全員が,
1頭痛や高血圧などなんらかの身体的症状や,イライラしたりむなしさがあったりといった精神的症状が出ている。
2仕事や自分の時間が減っていて限界に達している家族が多い。
3経済的に困難な家庭ほど,家事や仕事などにおいて限界に達していることが多い。
という話でした。
これらは,僕もホームヘルパーとして高齢者のおうちに入ってご家族を見ていて感じることです。ご家族は本当にしんどい思いをして介護をされています。それでも笑顔でお年寄りに接しておられるご家族もおられるので,一見した限りそんなにしんどい思いをされていないように見えます。でも,お話を聞いているうちに,しんどい思いを語ってくださるご家族が多いです。
家で介護するっていうのは,自分の人生を切り刻んでお年寄りのために使うことです。そりゃ,暇がたくさんある人なら自分の時間を使うことに抵抗はないでしょう。また,昔みたいに家に人生を捧げるのが当たり前の時代ではありません。今はみんなが忙しいんです。みんなが自分の人生を生きることができる時代です。そんな現代においてまだ,自分の人生を家族に捧げなければならない人たちがいる。介護の世界はなんて遅れた時代なんだろうと思いました。
さて,家族はそんなたいへんな思いをしてまで,なぜお年寄りの介護をするんでしょう。家族が介護するそのモチベーションはどこにあるのか。僕は前から不思議に思っていました。そこで,発表した人に,家族のモチベーションについて聞いてみたんです。
発表した人が言うには,家族は「私の役目だから」やるんだと話していたとのことです。自分は家族として家族の面倒を見るのは当たり前だ,と。
たしかにそうでしょう。家族なんだから。家族が自分で生きていけなくなったら家族が面倒を見るのは当然のことでしょう。それが自分の親だったら,親孝行するのは社会の美徳です。しかし,自分の体をこわしてまで,自分の時間をなくしてまで,自分の仕事をやめて収入を減らして生活水準を下げてまで,面倒を見なければならないのでしょうか。
僕は,家族はそこまでしてまで面倒を見るいわれはないと思います。昔の日本ならいざ知らず,今の日本は個人の人生を最大限尊重する社会のはずです。家族の面倒を見るのは美徳ですが,それも体をこわさない程度に,自分の時間をなくさない程度に,仕事をやめないでもいい程度に,面倒を見ることができるのが当たり前じゃないでしょうか。
基本的人権の中には,健康に自分の人生を生きる権利があります。今の在宅介護のあり方は,まさにこの基本的人権を侵害していると言えるのではないでしょうか。家族が助け合って生きるのは美しい。これは認めます。しかし,昔は家族のために(もちろん,家族のために「だけ」人生を犠牲にされたわけではありませんが)自分の人生を犠牲にされた人がたくさんいました。これからはそんな人を出さないようにしようと,憲法は個人の基本的人権を軸にした社会を設計したはずです。在宅介護が家族の人権を侵害するのであれば,これは全然美しくありません。家族みんなの基本的人権が守られる家族こそが美しい家族ではないでしょうか。そして,そんな美しい家族を実現するために,政治がしなければならないこと(というか,しなければならないのにしていないこと)はたくさんあると思います。
なお,この文章の「介護」を「子育て」,「お年寄り」を「子ども」,「家族」を「親御さん」に置き換えても,まったく成り立ちます。介護と子育ては,同じ根を持つ問題だと思います。
さらに。僕は,自分を犠牲にして家族に尽くしたいと思う気持ちを否定するわけではありません。それはあくまでも,家族のために自分を犠牲にしなくてもいい社会の中で自由にそう考えるのであれば,ですが。

2015年3月 4日 (水)

子育て・教育情報に流されないために~「多くの人が言っているやっている」を疑おう

ある集まりで,自分の子どもが孫にきつくしつけをしていることを心配している親御さん(おばあさん)がいました。「最近そういう親が多いですよ」とほかの人が言ったら「じゃあ,それで(きつくしつけて)いいのね」と。
日本人は,多くの人が言っていることを判断の根拠にして,多くの人がしていることを行動の根拠にする。西洋人は決まった正しいことをもとに判断行動する。昔の日本人論でよく言われたことですね。これを,キリスト教と日本独自の多神教になぞらえて説明されていました。日本人論といては説得力があると思います(西洋人論としてはどうかなあと思いますが。つまり,西洋人も同じなんじゃないかなと)。
そんな日本人をコントロールするのは簡単で,「多くの人が言ってますよ(やってますよ)」と宣伝すればいいんです。ほんとうの姿を見せる必要はありません。いや,ほんとうの姿を見せても,「でも多くの人が言ってるからやってるから」でスルーしてしまう。 お金や力をを持った人が「多くの人が」と宣伝すれば,その人の思い通りの考えや行動をしてしまうことになります。私が知る範囲では,子育てや教育,非行,不登校などのことに,この手の「多くの人が」が蔓延していると思います。ほかの分野でも同じでしょう。
これが,小さなコミュニティーで,自分の判断や行動が小さな範囲でしかないのならそれでいいでしょう。現に昔は少数の人しか政治にコミットできなかったので,その少数のエリートが正しいことを見据えて政治すればよかったんです。でも今は,成人のすべてに参政権があり,ネットという高拡散ツールもあり,「多くの人が」ではすまなくなっていると思います。
科学をはじめ学問の成果がすべて正しいわけではありません。あやしいのもたくさんあります。しかし,根拠を提示し論争を経たものとして,「多くの人が」よりもより正しさに近いものであることは確かでしょう。ならば,僕らの判断や行動の基準にするものとしては,「多くの人が」よりも科学や学問の成果をとるほうが,よりよいのではないかと思います。 「多くの人」に惑わされてまずい判断や行動をしてしまう前に,その「多くの人」が言っていることを疑ってかかる姿勢が大切だと思います。

2015年2月26日 (木)

あほな大人に出会うこと

先日パパサークルの記事を書きました。パパサークルのイベントって,けっこう「あほな」ことやってるんですよね(ここでいう「あほ」というのは,関東で言う「ばか」のことです。私が関西の人ですので,ここでは「あほ」と言います)。たとえば,バットを地面に立てておでこにつけて10回まわってからダッシュして記録を競うとか,靴を飛ばして距離を競うとか,自転車をいかにゆっくりこげるかとか。将来に何のいいこともないような,なんともあほなことやってるんです。もちろん,そんなあほなことやってるサークルばかりではないですよ。まじめに,建築士のお父さんを中心に秘密基地を基礎から建てたり,畑やったり,キャンプやったり,新聞紙を何日分もびりびりに破って部屋にぶちまけて喜んだり。とてもまじめなことやってるところもたくさんあります。

さて。そんなあほな大人と出会うことって,実はとても教育的なことなんです。ちょっと考えてみてください。田中正造。当時の議員さんですから地位も名誉も金もある人だったのに,銅山の毒によって苦しんでいる人たちのために私財をなげうって立ち上がって。「賢い」人なら,自分の地位や財産をなげうって人々を助けることはしないでしょう。実際彼もまわりから「あほ」ちゃうって言われて。でも彼が立ち上がったから,「公害」という概念が日本に根付くきっかけになったんです。
もちろん今は誰も彼のことを「あほ」ちゃう?なんて思いません(でも最近,田中正造をネガティブにとらえる発言をした議員さんがいましたね)。私が問題にするのは,当時の世間の考えです。同じこと,いまの世間も考えがちなんじゃないでしょうか。私の印象なんですが,どうも世間が「賢い」ことばかり望んでいて,「あほ」なことを極力避けようとしているような気がするんです。「賢い」ことって,危険を避けて効率よく自分に価値があるようなこと。
でもね。実はそんな「賢い」ことばかりで社会は動いていないような気がするんです。田中正造みたいな「あほ」なことをやる人もいて,それで社会が回っている。つまり,今「あほ」なことも,将来それが社会を動かす大きな力になることもあるんじゃないかって思うんです。そしてどの「あほ」が大きく社会を動かすかだれも予想できない。
ですから,「あほ」なことをするチャンスを子どもたちに保障することは,これからの社会を動かすために絶対必要なんです。パパサークルで「あほ」なことやってる大人を見て,子どもは「あほ」なことをすることの楽しさを知るでしょう。そして「あほ」なことをしだすでしょう。それが,次の社会を動かす大きな車輪になるのです。「賢く」生きることを強要するだけでなく,子どもが「あほ」な生き方できるようにする。これは教育なのです。
余談です。小崎恭弘さんの本に「あほ」なことをする子どもが理解できない親御さんが出てきますが。私が思うにたぶん,親御さんが「賢く」なりすぎているのではないかと思います。もちろん,「賢く」なることはまったく正しいことですし,「あほ」が理解できないのもまったく問題ありません。ここは「わからない」ないけど「ゆるす」態度がいいのでしょうね。

2015年2月23日 (月)

パパサークルの,子どもの教育的意義についての仮説

パパサークルってご存知ですか?お父さん方が集まって,子どもと遊ぶイベントなどをされているサークルです。私が所属しているファザーリング・ジャパン関西もそのひとつです。これは関西一円がテリトリーですが,地域にもあります。小学校などには「おやじの会」という会があるところもあるかと思います。私の娘が通っている小学校にもあります。私もたまに顔を出しますが,子どもが同じ小学校に通っているということで,初めて行っても話題についていけないこともなく。楽しいですよ。最近は保育園や幼稚園にも,お父さんの集まりを作っているところがあるようです。もし興味があれば,探してみてはいかがでしょうか。
さて。そのパパサークルが,子どもの教育に与える意義について,考えてみたいと思います。その前に,唐突ですが「子どもの夢」について考えてみます。子どもに将来の夢をきくと,たいがいが「警察官になりたい」とか「お医者さんになりたい」とか,職業ばかり出てくるんですね。「たくさん本が読みたい」とか「やさしい人になりたい」とか,自分の生き方についての夢があまり出てきません。
私は,「将来の夢」が「職業」だけというのが,何ともさびしいんです。私たちは,1日仕事だけしているのではないですね。職業人である前にひとりの人間なんですから。ひとりの人間として生きている部分もあるわけです。その「ひとりの人間」として生きている部分が,自分の仕事のベースになっているとも言えます。ですので,夢が職業だけというのは,どうもその子が自分の人生のほんの一部しか見ようとしていないような気がするんです。
これは,さもありなんです。子どもは,大人の姿を見て将来の自分をイメージします。「あんな大人になりたい」とか「なりたくない」とか。仕事している大人の姿しか見ていなければ,どうしても自分の将来のイメージが,仕事している自分に偏ってしまいます。これでは,将来の夢=職業にならざるをえません。
では,仕事していない大人を見る機会は,家庭のお父さんお母さん,親戚以外に,あるでしょうか。たぶん,ほとんどないんじゃないでしょうか。だとすると,子どもは,職業以外の大人のイメージを持つことが極めて難しいですね。
パパサークルのイベントでは,いろんな仕事のお父さんが集まります。集まったお父さんと子どもがいっしょにすごします。すると,仕事を離れた大人の姿をたくさん見ることになります。これが,仕事以外の大人のイメージにつながるんですね。こわそうな顔をしたおじさん,でもとっても優しくしてくれた。器用に竹とんぼを作ってくれた。サッカーがやたらうまかった。おいしいピザを焼いてくれた。なによりも,笑顔で楽しんでいるおじさんに出会えた。
パパサークルって,子どもにとってはそんな大人との出会いの場なんですね。そんな出会いが,子どもが将来をイメージするときのいいネタになるのではないだろうかと思うんです。きちんと研究したわけではないので,あくまでも仮説なのですが。きっと子どもの将来像に幅を持たせる効果はあるんじゃないだろうかと思います。

2014年12月 1日 (月)

ルールとマナーの違い

ある警察署のホームページに「交通ルールを守るというマナーを身につけ・・・」とあり、びっくりしました。

倫理学では、人間の行為を5つに分けています。
1絶対やらなければならないこと
2できればやったほうがいいこと
3やってもやらなくてもどちらでもいいこと
4できればやらないほうがいいこと
5絶対やってはいけないこと
まず、3について。たとえば、靴をはく時、別に左からはいても右からはいても、誰にも迷惑かけるわけでもないしどちらかからはかなければ何か問題があるとかもないし。3に入るのはこういう行為です。
問題は1と2、4と5です。まず1と5について考えます。「車は左側を走らなければならない」とか「人を殺してはいけない」などは、これはそう決めておかなければ自分を含めた社会がめちゃくちゃになります。絶対守らねければなりません。ですから、法律というルールで縛りをかけることになります。
では、2と4についてはどうでしょうか。たとえば電車内で「お年寄りに席を譲る」とか「足を広げて座らない」とか。これがルールになれば、お年寄りが乗ってきたら絶対席を譲らなければならないし、絶対足を閉じて座ることになります。
ルールはみんなが(そのルールの範囲内のみんなという意味です。以下同じ)絶対守らなければなりませんから、ルールは人間の行為を強く縛ります。今の日本は自由な国ですから、人間の行為を強く縛ることは最低限にしなければなりません。そうでなかったら、自由の国ではありませんね。ですから、2と4のことを1と5にするためには、それなりの理由が必要です。1や5にしないと、つまりみんながその行為をする(しない)ようにしなければ自分や他人が生命や財産などに大きなダメージを受けるとか、社会がむちゃくちゃになるとか、そういった大きなことが起こるからという理由がなければ、1と5つまりルールにするべきではない。
そう考えると、電車の中で「お年寄りに席を譲る」や「足を広げて座らない」は、それをルールにしてみんなが絶対守らなければ、どんな損害があるのでしょうか。もし、これが大きな損害だって言えることがあれば、当然ルールにすべきです。少なくとも私は、この2例についてはそんな大きな損害があるとは思えません。たぶん多くの人もそう思っているのでしょう。だからこれらは、「ルール」ではなく「マナー」なんです。「マナー」は、みんなが絶対守らなければならないものではありませんから、「私はやったほうがいい(やらないほうがいい)と思う」という、あくまでも個人的な価値観に基づく「道徳」であると言えます。実際私はお年寄りの席を譲ったほうがいいと思ってますし、足を広げて座らないほうがいいと思っています。でも、他人に強制すべきとは思いません。
こう考えてみると、先に書いた「ルールを守ることがマナーである」とは、「絶対やらなければならない(やってはいけない)ことをやる(やらない)ことは、できればやったほうがいい(やらなくてもいい)」と言っているわけで、これは明らかにおかしいですね。できればやったほう(やらないほう)がいいできればやったほうがいいのなら、絶対やらなければならない(やってはいけない)わけではないですから。ちなみにこの逆、絶対やらなければならない(やってはいけない)ことは、やったほう(やらないほう)がいい、も矛盾ですね。
こうした混同が、実は今けっこう多くみられる気がしています。「~したほうがいい(しないほうがいい)」が「~しなければならない(してはいけない)」に読み替えられている。子育ての分野でも、「小さいころにピアノのおけいこを受けたほうがいい」が「ピアノのおけいこを受けさせなければならない」にかわってしまう。この「ピアノ」が「体操」や「スイミング」や「勉強」にかわると、習い事をかけもちする忙しい子どものできあがりです。
「ねばならない」と「のほうがいい」を、きっちりわけて考えるようにしなければと思います。そして、今盛んに言われている「ねばならない」を検討すると、けっこうたくさんの「のほうがいい」の読み替えがあるのではないかと思っています。その読み替えがはやる世の中って、けっこう問題があるんじゃないかと考えています。この問題についてはここではくわしく述べません。
私は、私たちの生きづらさの原因のひとつにこの読み替えがあるように思っています。今この読み替えを見破る力が、求められているのではないでしょうか。

2014年10月 8日 (水)

小﨑恭弘著『男の子の本当に響く叱り方ほめ方』

ファザーリング・ジャパン関西の「お師匠さん」小﨑さんのご著書です。ご自身も3人の男の子の父親で、しかもご自身も3人兄弟全員男という、まさに男社会で生きて生きた彼の男の子の育て方です。これはもう。彼しか書けない本ですね。「男子のプロ」って、一瞬笑ってしまいましが、言いえて妙だなあ。あ。僕は彼を個人的に知っていますが、たしかに男臭い感じはしますが、そんなにおとこおとこしてない印象です。おっさんくさい汗くさいマッチョなことは書いてありませんでしたので安心してください。
さて。お母さんにとって男の子って宇宙人みたいに見えるんですね。彼が言うように、異性で子どもという、二重に違う人間ですからね。そりゃ宇宙人に見えてもおかしくないですね。プラスして、親子だからわかりあえるはずだという前提が、かえって小さな「わからない」を大きく考えてしまうのではないかなと思います。だから、彼の「男の子はわからないものだ」という前提は、本当に正当だなあと思います。
わからないんだから、わかるためには「よく見る」ことが必要なんですね。わかるって、「自分もそういうところあるわ」とか「自分も同じ気持ちだわ」とか、「自分もそうである」ところでわかろうとしてしまうんですね。そうではなくて「ここは違う」を知ることでわかることもあるんです。必ずしも自分と同じところを見つけなければわからないものではないんですね。この視点、とても大事なんです。
「わからないもの」として見ることで、叱り方やほめ方も違ってきます。叱るもほめるも、子どもを変える作業である以上は、その子どもがどんな子なのかを知ることが大事ですね。自分が知っている粘土であればすぐに簡単に作業ができますが、知らない粘土だったら、まずはその粘土を知らなければなりません。その粘土が、柔らかいのか固いのか、油粘土か紙粘土かといったことですね。男の子は「わからないもの」ですので、まずは男の子を知ろうというわけです。
たとえば男の子は「行動に全く深い意味はない」とあります。そうなんです。ほんとうに何にも考えていないんですよね。もちろん、聞けばいっぱしのことが返ってくるときもありますが、でも、そんなのその場限りです。しっかり考えてのことではないですね。そんな子に、「この行動の意味はどうで、それをしたらこうなって」なんて言ってもわかってもらえません。端的に「これはしてはいけません」と言い続けるしかないんです。
また、ほめる時も「今ここでほめる」「シンプルにほめる」「プロセスをほめる」の3点を指摘されています。行動に意味はなく今ここを生きている男の子には、この3点ですね。これらを抑えたほめ方をするのが一番子どもに届くんです。
この、自分とは違う人を相手にしていると前提すると、その子どもがどんなことなら理解できるかといったことも知る必要があります。自分だったらこう言われたらうれしい悲しいとか、何歳だったらこれはわかるだろうといった前提で叱ったりほめたりするのではなく、この子は何がうれしいのか悲しいのかわかるのかで叱ったりほめたりする。その子のあわせたオーダーメイドの子育てができる。親御さんならではの子育てですね。それが大事なんです。
小﨑さんにとっては、どの子もスペシャルなんでしょうね。ひとからげに考えるんじゃなくて、その子その子が全部違う。そんな彼に習った子どもは幸せですね。教育者としての基本姿勢をあらためて学ばせていただきました。
あちこちに関西弁が混じる、ハートウォーミングな本です。しかし、ここに通じる考えは、ポジティブ・ディシプリンやコモンセンス・ペアレンティングといった最新の子育て思想を、よくもここまで簡単にしかも正確に表現できるなと思わせる、通好みの本にも仕上がっています。親御さんだけでなく教育や子育て研究をしている人たちにもおすすめです。ぜひぜひ!!
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2014年4月16日 (水)

「定型」発達ってなに?

発達障害関係の話で「定型」発達という言葉がよく出てきます。まあ、障害がない普通の発達というぐらいの意味なんですが、僕はこの言葉が好きではありません。

この言葉には、2つの意味が含まれているように思うんです。1つは「発達には定まったかたちがある」という考えです。そもそも子どもの発達は、子どもによって違いますね。いわゆる「定型」発達の子どもでも、発達のかたちは人それぞれです。これは子どもを見れば一目瞭然です。

では、にもかかわらずなぜ「定型」発達という考えができたのでしょうか。実は、子どもの発達をたくさん見ると、どうやら同じような発達の仕方をしているように見えるんです。で、調べてみると、ある傾向があることがわかります。それで、発達には定まったかたちがあるのではないかと思われるんですね。

その考えは正当だと思うんですが、ここで注意すべきは、「多くの子ども」に共通の「傾向」がある「ように見える」ということです。つまり、あくまでもざっくりとした共通の発達であるにすぎないのです。ですから、その傾向にない発達をすることもじゅうぶんに考えられるので、別に定まった発達の仕方が「ある」わけではないのです。定まったかたちではないものを定まっているように言っているのに抵抗があるのです。

もう1つは、「定まったかたち」といった言葉には、定まっていないものに対するネガティブな印象を持たせるニュアンスがあるということです。決められたかたち以外はいわば不良品のように思われる市場主義の世の中で、定まったかたちをむりやり決めて、そのかたち以外を、いわば異形のように評価する。差別の構造が見えるのです。

もちろん、心理学などの学問上、「定型」発達を想定するのは、問題ありません。そこにはなんの価値判断はないのですから。ただ、ある傾向がある、それだけです。しかし、世の中はそんな価値判断をしないで済むわけではありません。やはり、価値づけして選別する仕組みがあるわけです。その仕組みに、発達心理学の理屈が使われている。とても危険なことだと思わざるを得ません。

「定型」発達という言葉に接すると、子どもはみんな違うんですよ、一人ひとりを尊重しなければなりませんよと言いながら、実は子どもを選別し差別しているように思ってしまうんです。子どもは、発達のかたちがどうであれ尊重されるべきです。言葉は気をつけて使わなければ、意図せずして新しい差別を生むことになりかねません。

2014年4月14日 (月)

保育の専門性~おむつがかえられたら先生になれるの?准保育士に思う

http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2014040902000113.html

准保育士、なるものが考えられているようですね。保育士の数が少ないから、資格を取りやすくして保育者を増やそうと。まあ、ばかばかしいと一蹴するのは簡単ですが、どうしてそんな発想になるのか、考えてみます。

戦前、小学校や中学校の先生は、師範学校で勉強したんです。今の教育大学で、昔は師範学校だったなんてところ、けっこうあります。でも、それだけでは先生が足りなくて、教員養成のためだけの教員養成所を作り、大学で教育を勉強しなくても免許を出したんですね。この教員養成所は、今も横浜と福岡にあるようです。課程は1年。小学校と幼稚園の教員免許が取れるようです。もちろん、この免許は特別なものではなく、大学で勉強してとれる免許と同じものです。

先生は、勉強を教えるのがメインの仕事と考えられていたんでしょうね。で、小学校や中学校の勉強は、卒業したらわかっているとみなされて、だったら教えられるだろうと。これがいかに乱暴な考えかは、今の教科教育法研究の進歩を見ればわかります。

さて。戦後は、教育について大学や短期大学でしっかり勉強してからでなければ免許が取れなくなりました。しかし、戦後の先生不足は深刻で、教育大学卒の先生だけではまかないきれないということで、教育学部卒でなくても免許が取れるようにしました。これは今でも生きています。

この、教員養成課程でなくても教員免許が取れる発想は、たとえば経済学部なら経済について専門的な知識を持つと。その専門的な知識を教育に活かせるという発想なんですね。つまり、経済の専門家として経済を教える先生にしようと。やはり、先生は勉強を教えるだけでいいと考えているとしか言えません。

今の学校は、勉強教えるだけで済むほど単純なところではありません。生活指導も同じくらい、いやそれ以上にしなければなりません。経済の勉強ばかりしてきた人が、先生になっていきなり生活指導ができるでしょうか。無理ですね。

ところが、それをさせている。これは、生活指導が「誰でもできる」指導であると考えられているからではないでしょうか。勉強は勉強ができなければ教えられないが、生活については生きてきた以上そのスキルはあるはず。誰でも子ども時代はあったんだからなおさら。だから教えられるだろうと。

この考えで、保育も考えられているのかなと思うんです。子育てをしたことがある人は、おむつを替えたりミルクをあげたりするスキルはあるでしょう。しかし、お友達とのトラブルをうまく指導するスキルはありません。体のケアはかろうじてできても、生活指導はできないんです。子どものけんかをうまく解決できなくて、そんな先生にわが子を預けたいですか?

教育も保育も、しろうとさんがいきなりやってできるほど簡単なものではありません。プロのスキルが必要なんです。そのスキルを証明するのが、免許なんです。だから、安易に出してレベルを落としてはいけないんです。

数が足りないから乱発する。悪貨が良貨を駆逐することになる、そんな制度は愚の骨頂だとわかってほしいですね。