教育問題

2018年4月25日 (水)

「星野君の二塁打」を考える~民主主義を教えるとは

「星野君の二塁打」という道徳教材が話題になっています。この話は、甲子太郎によって書かれ、1947年に『少年』に掲載されました。

あらすじは、少年野球チーム(もともとは旧制中学の野球部)の星野君は、監督の送りバントの指示に背いてヒッティングをして、結果二塁打になります。この二塁打のおかげで、チームは勝つことができました。試合後に監督から、指示に背いた星野君を、今後の試合に出さない旨の宣告がありました。その後、いくつかの改訂がされましたが、大きなあらすじは変わっていません。

今話題になっているのは、この監督の宣告です。つまり、監督の指示に背いて自分の判断でヒッティングをした星野君を罰する監督の、星野君の自由な判断を否定する判断が、個人を軽んじて集団に殉ずる価値観を植えつけるものだということなんですね。

たしかに、結果試合に勝ったわけですから、星野君は否定されるいわれはなく、かえってヒーローになってしかるべき人だと考えられます。また、いくらチームプレーであったとしても、監督の指示は絶対だというのは、子どもの自主性をおさえつけるもので、民主的ではないとも言えそうです。

しかし、この話を読んでみると、必ずしもそういった批判が当たるとは言えないように思えます。ポイントになるのは、試合後の監督の言葉にあります。引用します。

「(ぼくが、監督に就任する)そのとき、君たちは、喜んで、ぼくをむかえてくれると言った。そこで、ぼくは、君たちと相談して、チームの規則をきめたのだ。いったん、きめた以上は、それを守るのが当然だと思う。また、試合のときなどに、チームの作戟(ママ)としてきめたことには、絶対に服従してもらわなければならない、という話もした。君たちは、これにも快く賛成してくれた」(下記論文から孫引き)(この言葉は、言葉の変更はありましたが、意図するところは変わっていません)

ポイントとなるのは、
①この監督は、子どもと「相談して」規則を作ってきた
②子どもたちは、チームの作戦には服従することを「快く賛成」した

つまり、この監督は、子どもたちを話し合うことで合意を作りつつ民主的にチームを作っていこうとしていたと言えます。また、子どもたちは、話し合う暇がない時は(この言葉は、甲子太郎の原文には入っています)監督の考えに従うことを「同意」しているわけです。こうしてみると、この監督は決して非民主主義的で専制君主のようにチームを支配してきたわけではないと考えられます。

この話が書かれた1947年は、終戦後2年であり、日本国憲法が施行された年でもあります。民主主義の国を作ることに熱中していた時代です。民主主義では、メンバーの話し合いによって決めたことには従うというのは、最低限のルールです。下記論文に引用されている学習指導要領の述べるとおり、この教材は、そういった民主主義を教えるためのものであると言えるかと思います。

そう考えると、この監督が星野君を試合に出さなくしたことは、そう簡単には批判できないように思います。

しかし、私は、この監督を全面的に支持することはできません。もしこの監督が民主主義的にチーム運営をしたいのなら、星野君の処分を決める前に、星野君になぜヒッティングをしたのか聞くべきではなかったかと、つまり、星野君の申し開きの機会を与えるべきではなかったかと思います。民主主義的な手続きの中には、処分に対して自分の考えや事情を説明する機会を与えられる権利が入っています。一方的な処分は、およそ民主主義的とはいえません。

規則を破る人には、それ相応の考えや事情がある。処分をするときは、その事情を考慮に入れるべきである。私は、非行や犯罪についても、一方的な処分をするのはおかしいと思います。やってしまった人の考えや事情を大事にして、処分を決める。星野君だけでなくすべての非行少年や犯罪者も、そう接するべきだと考えています。

さて、ここで気になるのは、原文では、威圧的であるにしてもいちおう監督は、異議申し立ての機会を与えています。監督は処分をするときに、星野君に、この処分でいいか確認しているんですね。それで星野君は処分を受け入れますというやり取りがあるんです。でも、下記論文によると、改訂を経てこのくだりが抜けているようなんです。どうも、最近の方は、民主主義を教えるという意図が薄れて、ただチームのためばかり教えようとしているような印象を持ってしまいます。そのあたりも、もしかしたら批判の対象になっているのかもしれませんね。

この問題を考えるのに、ぜひ読んでいただきたい論文です。

「小学校体育科における 「知識」 領域の指- 教材 「星野君の二塁打」の検討 (二)-」功刀 俊雄 (奈良女子大学文学部)
http://nwudir.lib.nara-wu.ac.jp/dspace/bitstream/10935/2881/1/AA12388405V4_pp54-61.pdf


2018年4月13日 (金)

高校中退についての、前川喜平氏の発言に思うこと

前川喜平元文部事務次官が、高校中退に触れ、高校中退者を減らすために数学を必修にしないように提言しています。
https://togetter.com/li/1217275

この発言について、2つ考えてみたいと思います。

まず、高校中退者についてです。高校中退者に貧困や自己肯定感に低さがあると主張しています。それで、高校中退を防がなければならないと。たしかに、私も、高校中退者にそういった特徴があると思います。しかし、だから高校中退を防がなければならないという結論には、ちょっと待ったをかけたいんです。

高校中退したら、どうして貧困になったり自己肯定感が低くなったりするんでしょうか。今は学歴社会です。学歴が低い人は、不当に低い賃金で働かされることが多いです。また、学歴が低いことで、他人から低く見られることもあります。そういった社会によって、高校中退者が、貧困になったり自己肯定感が低くなったりするんです。

不当に低い賃金で働かされたり、低く見られたりといったことは、国民みんなが、お互いの人格を尊重すべきという社会正義に照らして、あるべきことではありません。高校中退者がそういった社会正義にもとる扱いをされるのであれば、高校中退者をすくうのは、高校中退させないことではなく、社会に酒井正義にもとる扱いをさせないことではないでしょうか。
これは、無職の人の再犯率が高いということで、刑務所出所者や少年院出院者に、なんとかして就職をさせようとする、今の更生保護の考え方にも通じます。出所者や出院者がなぜ再犯してしまうのか。生活保護受給の厳しさや、犯罪者というレッテル貼りなど、今の社会の無職の人に対する不当な扱いに起因しているのではないか。これは、社会正義にもとるのではないか。高校中退者も元犯罪者も、そのままでも尊重されるような社会を目指すべきだと、私は考えます。

2つ目。高校中退を防ぐために数学を必修にしないことについて。

高校での数学の授業は、たしかに高等学校学習指導要領に基づいて、その期待する水準の授業をすることになってはいます。しかし、その水準に耐えられない生徒もいます。そういう生徒には、その生徒にあった授業ができるようにすればいいのではないでしょうか。その子にあわせた授業をすることこそ、その子を尊重するということではないでしょうか。その子にあわせた授業ができないような、学習指導要領体制にこそ、私は問題があると考えます。

彼の主張は、学校は学習指導要領で決められた授業をするのが前提になっています。学習指導要領体制をどうしても崩したくないのでしょう。既成の枠組みを崩すことなく問題を解決しようとする考えは、不登校児を変えることに専念し、不登校を生み出す学校の仕組みは温存しようとする、今の不登校についての取り組みにも通じます。

人に対する不当な扱いをそのままにすることを前提とする考えには、私は同意できません。

ちなみに、文科省の統計では、「学業の不振」は8.6%です。「学業」の中には、数学以外の教科も含まれるでしょうから、数学を必修にしなくなっても、それで高校を辞めなくてすむ人はそれ以下であるということです。数学を必修にしないことは、効果がないとは言いませんが、あまり高くないと言わざるをえません。

2018年2月22日 (木)

先生の研修充実について

先生の研修を充実させましょうという動きがあります。先生のスキルを向上させて、学校の教育レベルをあげましょうという意図だそうです。

この話によせて、思いだしたいことなど。大学の教育学の授業で、他はまーったく覚えてないんですけど、1つだけ覚えていることがあります。

教育活動は2つにわけることができる。1つは能動的教育活動、もう1つは消極的教育活動。
能動的教育活動とは、あることを教えようと思って被教育者に直接教える活動のことで、授業とか補習とか宿題のこと。消極的教育活動とは、勉強のこととかを自由に話できるような友達関係を作るなど、勉強を直接教えるわけではないが教育的に効果がある働きかけのこと。
で、教育活動を考えるときに、すぐに思いつくのが積極的教育活動であるが、ほんとうに大切なのは消極的教育活動である。勉強をしてほしかったら、カリキュラムの編成や教室の環境やクラス内の人間関係といったものを整えるべきである。

てなことでした。

まあ、学生の時は、そんなもんかと思ってましたけど、少年院に勤めだして、ほんとうにその通りだなと思うようになりました。

これ、子どもについてだけでなく、先生についても同じだと思うんですね。本当に先生に勉強してほしかったら、研修という能動的教育活動だけでなく、先生が勉強できる、やろうと思えるような労働環境や人間関係を作るといった、消極的教育活動を考えるのが、教育のプロである教育委員会の仕事だろうと思うわけです。

でも、無理だろうな。僕が見る限り、教育委員会管理職側は、どうも、先生の集団づくりっていう発想自体が、あんまりないように思う。というか、作るんじゃなくて壊す方向で考えてるんじゃないかって。これでは、いくら研修を積みあげても、無駄骨ばかりでダメなんじゃないかなと思いますねえ。

2018年2月 7日 (水)

どっちが偉い?~更生するたいへんさと真面目に生きるたいへんさ

ツイッターでこんな書き込みを見ました。

「元ヤンキー」を売りにしている人を見ると、伊集院光さんがラジオで「ヤンキーが立ち直るのは偉いかもしれないけど、ずっと真面目にやってた人の方がもっと偉いだろ」って言ってたの思い出す。
https://twitter.com/moritakayuki/status/960743039885963264

非行少年や犯罪者の更生にかかわっているものとして言いますが。ヤンキーの人が更生するって、かなりたいへんなことなんですよね。自分を変える努力と、まわりに受け入れてもらう努力。これらがちゃんとできてはじめて、「更生」となる。それって、たぶん、一般の人が思っているよりもかなりたいへんな努力が必要です。

真面目にやってきた人も、もちろん、悪い道にそれないように自分を律して生きてきたと思います。人間、簡単にダークサイドに堕ちてしまいますからね。そうならないように生きていくのも、意外とたいへんです。

私は、更生するたいへんさと、真面目に生きるたいへんさは、別のものだと思います。「元ヤンキー」で今は更生している人の偉さと、グレずに真面目に生きてきた人と、「偉さ」が違うと思うんですよね。ですので、「どっちが偉い」なんて単純に比較できないと思うんです。

「どっちが偉い」ではなく「どっちも偉い」でいいんじゃないでしょうか。



2016年7月 5日 (火)

「どちらのため」ではなく「どちらものため」~いじめ調査の開示問題について


いじめが起こってその結果重大なことになってしまったとき,第三者委員会が組織されて調査をするケースが増えています。その第三者委員会の調査結果をいじめられた側に開示されないケースがあるようです。

学校が調査報告の公開にかなり慎重にならざるをえない事情も理解できるんです。今はいじめ事案が起こるとネットを介して様々な情報拡散が行われ,いじめた子の更生や人生に大きく影響がある現状があります。もしいじめの調査報告が本人や家族を通して公になると,それが関係者の中だけにとどまらず,ネット等によってひろく拡散されてしまう可能性が極めて高いのが現状です。すると,同じようにいじめた子のこれからの学校生活や人生に大きな悪影響を与えてしまうことになります。いじめた子のことを考えると,これは避けなければならない。

少年事件では,非行少年に関する情報は基本的に非公開です。審判結果も非公開ですし,被害者やその家族は,基本的に審判に出席もできません(今は一部のケースで遺族などが審判に出席したり審判結果を閲覧したりすることが可能になっています)。これは,非行少年のこれからの人生を守るため,その子が非行をしたことを社会に知らさないためです。いじめのケースでも同じように,いじめた子の更生のためにその事件の情報を制限することは,ある意味意義があることだといえるのではないかと思うんです。

しかしそうはいっても,いじめられた子やその家族が調査結果を知りたいと思う気持ちはじゅうぶん理解できます。特にいじめられた子がなくなった場合は,わが子になにが起こったのかを知りたいと思うのは家族として当然の気持ちですし,知ることは当然の権利だと思います。わが子に起こったことを知るためには,第三者委員会の調査しかない現状では,被害者やその家族が調査結果を求めるのは当然のことでしょう。実際少年事件の被害者やその家族が,審判結果を見れなかったり審判に出席できなかったりでやりきれない思いをしている現状もあります。

ということでこの問題を考えるには,いじめた子のために情報を開示しないのか,いじめられた子やその家族のために情報を開示するのかといった議論をしても平行線をたどるだけで解決にいたらないように思います。「どちらのため」ではなく「どちらものため」という視点ではない視点から考えなければならない問題ではないでしょうか。

なにがいじめた側いじめられた側双方のためになるのかをきちんと議論したうえで,その「双方のためになること」の中に調査結果がどう位置づけられるのかを考えて開示するのかしないのか決めるべきではないかと考えます。

何が双方のためになるのかは個々のケースでさまざまになるでしょう。一般的なマニュアルは作れないのではないかと思います。第三者委員会は,「このケースでは」何が双方のためになるのかも議論していただきたいと思います。そのためにも,第三者委員会の人選は,いじめられた側から推薦された委員に入ってもらうことが大事です(今はそうなってきているように思います)。

私は,いじめの問題を含めていろんな問題を,二律背反の構造にもっていっても解決にはならないだろうと考えています。どちらかにいいように,ではなく,どちらにもいいように,考えてきたいと思います。

2016年6月16日 (木)

「望まれない妊娠」を「望まれる妊娠」へ~朱雀高校のケースを考える


京都府立高校の3年生の生徒が,妊娠したため体育の実技が受けられず卒業できない状態になっています。学校は出産のために休学をすすめていますが,本人は来年の卒業を望んでいます。この高校は,この生徒に体育実技を免除すべきでしょうか。

この問題を考えるために,まず10代の妊娠についての世の中の考え方をまとめてみます。そもそも10代の妊娠は「望まれない妊娠」として世の中では歓迎されていません。たしかに10代での出産子育てというのは,もしかしたら落第しなければならなくなるかもしれない,そうなったらほかの子よりも卒業が一年遅れ,社会に出るのが1年遅れることになります。その子のこれからのキャリアに大きな影響を与えるでしょう。また,結婚前の性交渉があったということの証拠になりますので,「ふしがらな」子だと思われるかもしれません(これは決して昔の事ではなく,婚前交渉が当たり前になった今でもそうです)。10代の妊娠が「乱れた性」の象徴として描かれてもいます。そういった性道徳の強調の筋からも,10代の妊娠は「望まれて」いません。ですので,10代は「妊娠しないように」させることが,「望まれない妊娠」対策の第一になります。避妊教育も,「望まれない妊娠」をしないことが強調されています。

さて,10代の妊娠が「望まれない妊娠」であったとしてその対策を考える場合,もう一つの道があります。それはその妊娠を「望まれない妊娠にしない」という道です。なぜ10代妊娠が望まれないかというと,学校に通いながら出産子育てするシステムがまだきちんとできていないため,その子のキャリア形成に影響を与えるからです。だったら,学校に通いながら出産子育てをしても,その子のキャリア形成への影響が少なくなるようなシステムを作ればいいのです。そうすると,その妊娠は「望まれない妊娠」になりませんね。京都府立高校のケースだと,体育の実技の授業が受けられなかったり出産育児で授業を受けられなかったりした分を,レポートなどにするとかいうシステムを作ることですね。性道徳についても,性行為が子どもを作るものだけでなく愛情表現のひとつでもあり,だから婚前の性行為はいけないことではないこと,そして100%の避妊はないということを教えていくべきではないかと思います。

しかし,これはかなり難しいのではないかと思います。世の中の主流は,今はまだ「望まれない妊娠」を防止する方向に重きを置かれているように思います。10代の子に妊娠してほしくない人にしてみれば,10代の子の出産子育ては避けるべきものですから,妊娠した10代の子への配慮や優遇はしてほしくないことでしょう。なぜなら,10代の妊娠は「望まれない妊娠」ですので10代は妊娠するなと言いながら,10代の妊娠に優遇措置をとるのは矛盾ですよね。この高校は,この矛盾を突かれたら返しようがないから,体育の実技免除の基準に妊娠を入れられないのではないかと思います。実際他のケースでは,10代の妊娠に優遇はしない措置は当たり前であり世の中の支持を得られたでしょう。

ただ,文科省も教委もネットでの反応もこの子の来年の卒業を支持しているところから,世の中の潮目が変わってきてるのかなとも言えるでしょう。この生徒の妊娠が「望まれない」ものではなくなったとは言えませんが,この生徒の妊娠を肯定的にとらえようとする動きはでてきたのかなと思います。

私は,今この生徒のお腹の中にいる子は縁があって命を授かった子ですから,この生徒も保護者も学校もみんなが機嫌よくこの子をこの世に迎えられるようにしたいと思います。そのために,この生徒の妊娠を「望まれない」ものではなく「望まれた」ものにしたいんですね。体育の実技がこの生徒の望みやキャリアのハードルになっているなら,それを取り除けばいいと思います。それで学校は「望まれない妊娠」を認めているのではなく,その妊娠を「望まれる妊娠」にしようとしているのだと言い切ればいいと思います。

少子化が進んで(今年は少し止まりましたが)出産子育て環境の整備を声高に言われている昨今です。出産子育て環境をよくするのは,なにも職場だけではありません。学校も,子どもが作れる体になっている子が通います。このケースが,学校の中でも,安心して出産子育てできる環境を考えはじめる,いいきっかけになることを願います。

2016年6月 8日 (水)

ヤンキーの子を食い物にするな!!


つまり,介護職員の「ひとり親方」化を進めようとする意見ですね。地方のヤンキーたちを介護職員にして,独立させてひとり親方にさせる。個人事業主にすると,がんばればがんばっただけ収入が上がるから,「定収入でも家族や仲間とまったり過ごしたい」彼らも上昇志向を持つようになるだろう。介護職員確保にもなって,いいことだと言いたいんでしょうね。


はっきり言います。ふざけるな!!


今「ひとり親方」といえば建設業ですね。現場に入っている職人さんは,下請けの個人事業主である人が多いです。そういう職人さんたちは,元請けの建設会社から仕事をもらって現場に行きます。職人さんをひとり親方にすると,会社の側は,社会保険料や雇用保険料の負担もないし,その他の社員に対する費用や事務の負担がないわけですから,コスト削減になります。ひとり親方も,「労働基準法の縛りなく働けます」のでがんばったぶんだけお金がもらえます。どちらにもいいことずくめだと言いたいんでしょうね。


でも,ほんとうにそうなんでしょうか。職人さんたちは個人事業主ですから,労働基準法の勤務時間の制限がありません。しかも請け負うときは一仕事でいつまでにいくらの請け負い方をしますので,請け負わせる側は,労働基準法による労働時間内でおさまらない工期設定でもOKなんですね。もちろん断ることもできますよ。でもそれでは仕事がもらえない。仕事がもらえなかったら収入ゼロですね。それで,無理な工期で朝から晩まで働かされる。


今建設現場では,日曜日だけ休みになっています。土曜日も朝から晩まで仕事しているんですね。うちに事務所の裏もホテル建ててるんですが,土曜日も朝から晩まで職人さんが働いていますよ。あんなの,職人さんがもし社員さんであったら完全に労基違反なんですが,でも職人さんは個人事業主なのでOKなんですよね。


また,ケガをしても労災保険の任意加入をしておればまだ救われますが,入っていなかったら全額実費です。もちろん社員さんは事業主が強制加入ですから,そんな心配は無用ですが,ひとり親方は個人事業主ですからね。労災保険料も自前です。


しかも,労災を請求したら,その現場の安全はどうなっているのか調査するために労働基準監督署が入ります。建設会社はこれを嫌がるんですよね。だって,どんな現場だってたたけばほこりが出るんですから。「目をつけられる」わけです。ですので,「暗黙に」労災を使うなという空気があると言います。そうなると,いくら労災に入っていてもケガの保障は何もないわけですね(実は損害保険会社はここに目をつけて,ひとり親方に,労災を使わなくてもけがの治療が保障されますよという商品を売るんですね。もちろん,労災の「上乗せ」という名目ですが。これ,けっこう売れてます)。


もちろんこれは,最近行政の指導がかなり徹底しているので減ってきてはいるみたいなことです。しかし,元請けに「迷惑をかける」ことにはかわりないわけですから,労災を使うのも気が引けますよね。また,労災を使った職人さんは次の現場に使ってもらえないといううわさもあります。もちろん社員の職人さんはそんな心配は皆無です。でも,ひとり親方は,違うんですよね。


そう考えると,ひとり親方になるのも問題あるなと思います。でもね。そういうひとり親方のあり方に親和性がある人たちがいるんですよ。そう。ヤンキーの子らなんですね。


彼らは,自分ががんばったぶんだけお金がもらえて,しかも「雇われている」のではない立場であることがうれしいんですよね。そりゃそうです。ヤンキーになるような子は,労働時間の規制は完全無視で働いても働いても低賃金で,雇い主から理不尽なことを要求される,いわゆるブラック企業での就労経験しかないわけですから。雇われるっていうことのイメージが悪いんですよね。「労働者の権利」なんていってもピンとこず,働くとはそういうものだ,と思ってしまっている。


さらに,今自分はこうなったのは,勉強しなかったからだとか親や先生の言うことをきかなかったからだとか,つまり「自己責任」だとさんざん言われていますので,世の中は自己責任が当たり前,自分のケガなどを誰かから保障してくれるという考えになじまなくなっています。ひとり親方の資質じゅうぶんですね。


そうやって,「合法的に」ブラックな働き方をさせているのが「ひとり親方」制度なんです。ヤンキーの子らは,そういう働き方しかさせてもらえず,でももたなくてやめてしまったら「根性がない」とか「だからヤンキーは」とか言われる。余計にちゃんとした働き方ができない,の悪循環です。


そして,学校などからドロップアウトする子は確実にいますので,換えは何人でもいるわけです。この子がつぶれても,一部のもつ子だけいればいいわけですし,子どもがつぶれるのは子どものせいに知るわけですから,世の中はいつまでもこの体制を変えようとしませんね。そうやって,学校などからも働くことからもドロップアウトせざるを得ない子どもを量産しているのです。


さて。今は建設業が多いこの制度ですが,今度は介護にも使おうとしています。そうなったら,ヤンキーの子らは建設だけでなく介護でも,ブラックな働き方をさせられることになります。


そりゃ,介護業者はいいですよ。労基も労災も考えなくていい安価な労働力を手に入れられるんですからね。さらに政府も,介護報酬を安くあげられますから,願ったりかなったりでしょうね。でも,ヤンキーの子ら側からするとどうですか。やはり労働者としての人権を無視しされた働き方しかできないんですね。


これって,ヤンキーの子らを食い物にしているだけじゃないですか。


こんなひどいこと,私は許せない。そりゃ,ヤンキーの子らは世の中に迷惑なことしたかもしれない。でも,だからといって世の中の食い物にされる筋合いはない。ヤンキーの子らを食い物にするから,彼らは立ち直れないんです。


私はヤンキーの子らとともにある身として,こういったヤンキーの子らを食い物にするようなやり方に断固反対します。

2016年6月 5日 (日)

体罰は「行きすぎた」指導なのか

体罰などがあると「行きすぎだった」と言われます。いつも私はその言葉に違和感を持ちます。



「行きすぎ」ってどういうことだろうと。

体罰などが「行きすぎ」だっていう考えの前提は,指導方法に段階があって,体罰などにいたる前に何かほかの指導があって,その指導の域を超えた先に体罰などがあるということでしょう。体罰などが「行きすぎ」だというのは,本来ならば体罰などまでにいたらない段階の指導をするべきなのにしなかった,という意味なんでしょう。


では,体罰など様々な指導の段階はどうやって決められているのでしょうか。一般的にはその指導の「厳しさ」によって決められているようですね。たとえば,優しい口調で叱るのときつい口調で叱るのとでは,きつい口調のほうが厳しい,口で叱ると体罰とでは,体罰のほうが厳しい,と言った具合です。そして,より厳しい段階のやり方が効果があると思われています。それで指導の「厳しさ」に段階をつけて,そこに子どもを当てはめる。「この子は何度もやっているから,きつい口調で叱るに値する」とか「この子は初めてやったことだから優しい口調で叱る程度でいい」とか。


しかし,子どもをその序列にあてはめるときに,どうしても大人の思いが入ってしまうんですね。その子をなんとかしなきゃ,っていう思いが強い大人は,どうしても子どもを厳しい段階にあてはめようとしてしまいます。また,教育方法の「厳しさ」の段階って,そもそもできないんじゃないのかともいえます。ある子にしたら,優しく言ってもらうほうが,きつい言い方をされるよりもこたえる,っていうこともあります。教育方法の序列に子どもを当てはめるやり方では,その子どもと教育方法とがうまくマッチしないでズレができてしまうんですね。


私は,そもそも教育方法の「厳しさ」による序列に子どもを当てはめる発想は,もはや使えないだろうと考えます。子どもを教育するときにどんな方法を選択するかは「厳しさ」基準ではなく,その子の問題に合わせたやり方を選択するようにすべきです。


そうして子どもにあわせた方法選択の中に体罰が入る余地があるのかを考えてみると,入る余地はないと言わざるをえません。なぜなら,体罰は子どもの尊厳を奪うものである以上,そもそもどんな教育目的であってもその達成につながらないからです。


指導方法に段階をつけるから,体罰があってしまうと思います。体罰は「行きすぎた」指導ではなく,そもそも指導の選択肢に入れない考えのもと,指導していく必要がるのではないでしょうか。

あわせてご覧ください(外部リンクに飛びます)

「まともな大人」による「まともな教育」のために

Yahoo知恵袋に投稿された,クラスで騒がしい生徒がいて,騒ぐ子供の成績を1にしたいという相談です。


私(ここではyc_pcbkxです)はその回答の中で,

「私があなたの質問を読んでまず思ったのは, 「なぜその子たちは授業中に騒ぐようなことをするのだろう」 ということです。そりゃそうですよね。授業中に騒ぐ子は,授業中に騒ぐ「なぜ」があるんです。あなたの質問にはそれが書いてない。なぜでしょうか。思うにあなたはなぜその子たちが騒ぐのかわかってないからじゃないでしょうか。なぜそんなことをするのか,ひざ突き合わせてきちんと話し合っていないからじゃないでしょうか。なぜ騒ぐのかわからなくて,その子たちのちゃんとした指導はできませんよね。だから,成績で脅しをかけたり体罰という重大な法律違反を犯すという,表面的な対応しかできないのではないでしょうか。そんなことをする大人は「まともな大人」でしょうか。たたいたり脅したりって,そんなのまさにヤクザのすることじゃないですか。先生がヤクザと同じことしてどうするんですか」
と書きました。 まあねえ。てなこと書いていながら実は,僕もこの先生の気持ちがとってもよくわかるんですよね。日々ぎりぎりのところで指導していると,どうしても「ダークサイド」に落ちてしまいかけることもあります。そんなときに「はっ」と思えるのは,ふとした時に見せる子どもの表情だったり言葉だったり,同僚の先生の一言だったり。 たぶん,学校内で,こんな指導おかしいって思ってる先生はいると思います。もしかしたら,こんなのおかしいって思っていながら学校の空気を読んで表に出さない先生の方が多いかもしれません。そんな先生を見つけてつながっていけたら,みんなが声を掛け合えられたら,誰もが「ダークサイド」に落ちなくてもすむのではないかと思います。実際,もともな教育ができている学校もたくさんあるわけですし。 この先生をたたくのは簡単です。でも,たたく前に,先生がまともな指導をする「まともな大人」であれる学校にすることが先だと思います。先生は,ほとんどがもともとは「まともな大人」なんだし,そうでないまたはそうでなくなった先生を更生させるのも,「まともな大人」であれる環境でのみ可能です。そのためになにをどうすればいいのか。そちらに重点を置いて考えていけたらと思います。

2016年5月15日 (日)

「カルテ」の使い方~その子の「歴史的資料」としての「カルテ」

「障害ある子の「カルテ」義務化 小中高共通,学校が作成

少年院には,少年の身柄とともに「少年記録」と呼ばれる資料が来ます。少年記録には,警察の調書や少年鑑別所の鑑別結果,家庭裁判所調査官の調査記録,審判結果など,この少年についてのすべての資料がそろっています。私は,自分が担任することになった少年についてはこの少年記録を全部読みました。しかし,実際少年に会って,いっしょに生活をし面接を繰り返していくうちに,少年が記録にない姿を見せることがあるんです。あれ,少年記録にはこう書いてあったはずなのにな,って思っちゃうんです。

もちろん,鑑別や調査が間違っていたわけではありません。鑑別や調査をした人から見た少年の姿と私から見た姿が違っていただけのことです。円柱って,上から見たら丸いけど横から見たら四角いですよね。同じものでも違う角度から見たら違う姿を見せるんです。鑑別技官や家裁調査官と法務教官とではその子を見る目的が違いますから,視点が違って当たり前です。また,少年は日々変化していきます。社会にいる頃と鑑別所にいる頃と少年院に入った頃とでは,いろんな人との出会いや生活環境の変化で別人のように変わってしまうこともしばしばです。

ですので,少年記録は,「その時のその人が見た」記録,いわば「歴史的資料」であると「理解して」使わなければなりません。

さて。この記事では障害を持つ子どもの「カルテ」を作って引き継ぎなさいとする規則ができるとのことです。今までその子についての引継ぎがちゃんとされていなかったので,適切な指導ができなかったということです。

今までその子のことを引き継ぎできていなかったのであれば,たしかに,指導がぶつ切りになってうまくいかないこともあったでしょうね。 ただ,じゃあカルテを作って引き継ぎすればうまく指導ができるかと言えば,そうでもないんですね。カルテはあくまでも「その時のその人(先生)が見た」記録に過ぎないですから,カルテに書いてある子どもの姿と実際目の前にいる子どもの姿が違っていることも多々出てくると思うんです。先生は「今の」「自分の目で見た」子どもの姿を基に指導しなければなりませんから,そうなると「カルテ」は使えないな,って思っちゃうんですね。実際少年院でも,だから少年記録を見ない先生もいたんです(もちろんその先生は,自分の目で今の少年を見てすばらしい指導をされていました)。

かといってじゃあ,「カルテ」なんて使えないものはいらない,っていうのも違うと思うんですね。その子を見るとき,まっさらの目で見てその子を理解するのって,けっこう時間がかかります。学校でその時間を費やすことができるのかというと,たぶん無理でしょう。その子を理解するまで,当てが外れた指導をしてしまうことになってしまいがちになります。ならば,前の人はどう理解したのかを「参考」にして,自分が見えた姿とその記録とあっているところや違っているところをもとにその子を見るというやり方のほうが早いんですね。

一方,カルテに書かれていることを忠実に受け入れて,あたかもそこに書かれていることのみが正しいと考えるのもおかしいですね。こういうことがあるんです。ある先生がその子を見て違う先生に「〇〇さんって~ですよね」と言ったとします。言われた先生が「いや,申し送り(つまり「カルテ」)には違うように書かれていますので,その見方は間違っています」と答えるんです。マニュアル主義の先生なんかは,こう答えそうですね。「カルテ」がこのような使われたかをするのも,違うと思いますね。

「カルテ」はあくまでその子理解の「歴史的資料」にすぎません。必要以上に軽んじたり重んじたりすることなく,自分のその子理解のためにうまく使っていただいて,いい指導をしていただきたいと思います。

より以前の記事一覧